松平宗衍

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松平 宗衍(まつだいら むねのぶ)は、出雲松江藩の第6代藩主。直政系越前松平家宗家6代。

生涯

享保14年(1729年)5月28日、第5代藩主・松平宣維の長男として生まれる。幼名は幸千代。

享保16年(1731年)10月13日、父・宣維の死により家督を継いだ。この頃、松江藩は財政が悪化し、藩政も不安定化していた。藩主となった翌享保17年(1732年)には、イナゴの大群の襲来によって農作物が大被害を受け、19万石の所領で得ることができた石高はわずか12万石程度に過ぎず、しかも家老たちが重税を強いたため、享保大一揆が発生した。このため、成長した幸千代は延享4年(1747年)に家老による合議制を廃止し、親政を行うこととした。この間、寛保2年(1742年)12月11日に元服し、将軍徳川吉宗から偏諱を授かって宗衍と名乗り、従四位下に叙位され、侍従に任官、のち出羽守を兼任した。

財政改革のため、宗衍は小田切尚足を登用した。尚足は財政再建のために特産品の専売化、泉府方の新設、そして義田政策を行うこととした。ちなみに泉府方とは、藩直属の金融機関による、土地を抵当とする資金調達法である。専売化も泉府方政策もある程度の成功を収め、一時期は財政再建成功とまで思われた。ところが改革の最中に天災が相次ぎ、さらに藩内で改革に対する反対派が力を盛り返したため、宝暦2年(1752年)に改革は停止されて尚足は失脚した。宝暦10年(1760年)、幕命により比叡山山門の修築などを命じられて、藩財政は破綻状態となった。このため、周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」とまで噂されたと言う。この間、宝暦5年(1755年)11月26日に、左近衛権少将に転任している(出羽守は元のまま)。

明和4年(1767年)11月27日、改革に失敗した失意から次男の治郷に家督を譲って隠居した。これは、改革失敗の責任を家臣団から問われての処置だったとも言われている。同日、出羽守から主計頭に転任した。安永6年(1777年)11月28日、入道して南海を号す。天明2年(1782年)10月4日に死去した。享年54。

人物・逸話

  • 隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、それにまつわる逸話が多い。家臣に命じて色白の美しい肌の美女を連れて来いと命じ、その女性の背中に花模様の刺繍を彫らせ、その美女に薄い白色の着物を着させて、うっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺繍を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとしたが誰も応じず、仕方なく1000両を与えるからとしても誰も応じなかったという。
  • 江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで妖怪やお化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいたといわれる。
  • 美男美女を藩邸に集めて、素っ裸の茶会を催して悦に入ったといわれるテンプレート:要出典


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