松平治郷
松平 治郷(まつだいら はるさと)は、出雲松江藩の第7代藩主。直政系越前松平家宗家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。
生涯
寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]、第6代藩主・松平宗衍の次男テンプレート:Sfnとして生まれる。
明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷(はるさと)と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。
ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。
文化3年3月11日(1806年4月29日)、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、文政元年4月24日(1818年5月28日)に死去した。享年68。墓所は松江市の月照寺。
松江市殿町鎮座の松江神社に主祭神として祀られている。
弟の衍親(のぶちか)は、俳諧などをよくする趣味人の松平雪川として知られる。
人物・逸話
- 政治家としての治郷の評価は低いが、一説には財政を再建して裕福になったのを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたという説もある(越前松平家系統は親藩の雄として尊重されると共に、過去の経緯から幕府からは常に警戒されていた)。
- 茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。さらには「古今名物類従」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。ちなみに治郷によって築かれた茶室は菅田菴(寛政2年(1790年)築、国の重要文化財)や塩見縄手の明々庵(安永8年(1779年)築)に現存する。この他に茶の湯につきものの和菓子についても、治郷が茶人として活躍するに伴い、松江城下では銘品と呼ばれるようになるものが数多く生まれた。このため、松江地方では煎茶道が発達して、今でも湯のみがお猪口状の湯呑で飲む風習が残っている。
- 上記のように治郷の収集した茶器の銘品・銘菓(山川・若草など)は「不昧公御好み」として現在にも伝えられ、松江市が今もって文化の街として評される礎となったことは、現代までに至る治郷の功績である。
- 武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居相(居合)を極め、不伝流に新たな工夫を加えた。
- 金魚を愛し、部屋の天井に硝子を張って肱枕で金魚を眺めた、金魚の色変わりについて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させた、などとも伝えられる。また、松江藩で開発され、さかんな金魚出雲なんきんがこの金魚と思われるが、現在島根県の天然記念物に指定されている。
官歴
- 明和元年閏12月21日(1765年2月10日)、従四位下侍従兼佐渡守
- 明和4年11月27日(1768年1月16日)、家督相続し、12月7日(1月26日)、出羽守に遷任。侍従如元。
- 寛政6年12月16日(1795年2月5日)、左近衛権少将に転任。出羽守如元。
- 文化3年3月11日(1806年4月29日)、隠居し、不昧を号す。
脚注
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参考文献
関連文献
- 内藤正中、島田成矩『松平不昧』増補版 松江今井書店 1998年(1966年)
- 松平家編輯部編纂『松平不昧傳』増補復刊 原書房 1999年(1917年)
- 長尾遼『真説松平不昧 江戸中期を生きた見事な大名の生涯』原書房 2001年
- 不昧流大円会事務局編『松平不昧と茶の湯』不昧公生誕二百五十周年記念出版実行委員会 2002年