アブー・アル=アッバース
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アブー・アル=アッバース・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=サッファーフ(テンプレート:Lang-ar Abū al-ʻAbbās ʻAbd Allāh ibn Muḥammad al-Saffāḥ、723年 - 754年)は、アッバース朝初代カリフ(在位:750年 - 754年)。
生涯
父親のムハンマドはイスラム教の預言者であるムハンマドの叔父・アッバースの曾孫に当たる。
747年にホラーサーンで蜂起したアッバース革命軍はウマイヤ朝を圧倒しイラクまで制圧する。しかし革命の中心人物であった兄のイブラーヒーム・イブン・ムハンマドが749年8月にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世に殺害されたため、兄のマンスールらとクーファに逃れてカリフに推戴された。
750年にはテンプレート:仮リンクでウマイヤ朝軍を撃破し、ウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世を殺した。ここにアッバース朝の成立を見る。
その後はウマイヤ朝の残党討伐や反ウマイヤ朝運動では同志的関係にあったシーア派の弾圧などを行ない、王朝内部を一族で固めることで支配体制を確立しようとした。治世下の751年にはタラス河畔の戦いでアッバース朝軍が唐軍を破っている。
754年、在位4年9ヶ月にしてユーフラテス川中流域にあるアンバールで天然痘に倒れて死去した。30代前半の若さだったと伝わる。後を兄のマンスールが継いだ。
人物・エピソード
- 短い治世ではあったが、うち続く戦いで内憂外患を圧し、後を継ぐ兄のマンスールによる帝国建設を可能にした。
- 政権安定のため大規模な血の粛清を行ったため、後世の史家はしばしば、サッファーフのラカブ名をもうひとつの意味である「血を注ぐ者」とも解釈した。ただしカリフ就任説教で「(功労者に対して)惜しみなく注ぐ者」を意味するラカブ名・サッファーフを名乗ったとも伝わる。
- アブー・アル=アッバースが激しい性格で残虐だったと伝わるが、それを示す逸話がある。ウマイヤ家の生き残りと和睦するために祝宴を開いて招待したが、このときに騙し討ちにしてウマイヤ家の一族を殺害した。そして死体の上に皮の敷物をしき、そのまま祝宴を続けたといわれている。
参考文献
- アミール・アリ『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
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