秩禄処分
秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。
明治初期の財政
江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。
江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石、20万3376両の出費となり、華士族に対する家禄支給は歳出の30パーセント以上を占めていた。
明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。また、四民平等においては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革において弊害となっていた。
政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。1869年には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することとなる。1870年には公家に対する禄制改革が実施される。
留守政府の禄制改革議論
1871年4月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握する。10月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府において禄制改革は行われた。大蔵卿大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。井上の改革案は大蔵少輔吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。一方で、留守政府においては1871年には禄高人別帳が作成されるなど、多元的であった家禄の支給体系の一律化が進む。
禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては反対意見も存在し、農民一揆なども勃発していた。また、留守政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。1873年1月には徴兵制の施行により家禄支給の根拠が消失する。
大久保政権の禄制改革
同年には使節団が帰国し、征韓論を巡る明治六年政変で西郷、司法卿江藤新平らが下野し、大久保利通政権が確立する。政変が収束し、11月には禄制改革の協議が再開され、最終処分までの過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信の提案で家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤は慎重論を唱え、木戸らは反対するが、方針として決定され、12月には再討議を行い、家禄税の創設と「秩禄奉還の法」が太政官布告されるとともに、家禄を整理するために自主的な秩禄奉還者に対して秩禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を採った。
家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用する事で士族の理解を得ようとした。家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業のための資金を与えるもので、士族を実業に就かせて経済効率を図ろうとした。これらの政策は一般には受け入れられるが、禄税の使途や地域格差があるなかの一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱を危惧する意見も出る。
地租改正で農民の納税が金納化され、それに伴い家禄支給を石代として金禄で支給する府県も出現し、また米価の変動による混乱や不満も生じていた。政府は1875年9月7日の太政官布告138号において禄高の金禄化の切り替えを実施した。続いて大隈は太政大臣三条実美を説得して秩禄処分推進の合意を得て、木戸の反対を押し切る形で1876年8月5日の太政官布告108号において、禄制の全面的廃止と金禄公債切り替えのための金禄公債証書発行条例を公布した。これに基づいて秩禄を受けていた者の禄高は1875年の府県ごとの貢納石代相場に応じて換算金額(金禄元高)が定められてそれに応じた金禄公債の金額が定められて翌年から強制的に行われるようになった[1]。
士族反乱と士族授産
地租改正による農民一揆と並び、神風連の乱や西南戦争(1877年)など明治初期の士族反乱は、秩禄処分により収入が激減した士族階級の不平が原因であったと考えられているが、一方で士族反乱に参加した士族の大半は金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩禄処分が挙げられているケースが少ない事も指摘されている[2]。士族の救済政策として士族授産が行われ、屯田兵制度による北海道開発も実施された。
だが、秩禄処分によって武士の生活が苦しくなったのもまた事実である。金禄公債の金利(下級武士に充てられた7分付き公債の場合)の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の1/3であったとされており、金禄公債を売って生活の足しにする人も少なくなかった。それは、1882年に鳥取県より出された、全士族のうちの9割が既に金禄公債を売却してしまったという報告書に現れている。1883年の統計によると、全士族約41.8万人のうち現職官公吏(軍人含む)もしくは府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上で非官公吏)の合算が全体の37.6%であったという。逆に言えば全体の2/3が没落士族に相当すると言えるのであった。
臨時秩禄処分調査会
秩禄公債、金禄公債が発行されて、家禄制度は全廃、整理されたが、これらの処分に関して異議を唱える者もあり、明治30年10月、家禄賞典禄処分法(明治30法50号)が、32年3月、家禄賞典禄処分法施行法(明治32法84号)が、公布され、請願が許された。また大蔵省に臨時秩禄処分調査委員会と臨時秩禄課が置かれ、審査に当たった。以後、29万2000余人の請願が審議され、38年、終わったが、なおも処分の再審を求める者が出て、大正8年5月、臨時秩禄処分調査会が設けられ、理財局が事務を扱った。
脚注
参考文献
- 落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』(中公新書、1999年) ISBN 4-12-101511-8
- 落合弘樹『明治国家と士族』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4-642-03736-5