山内忠豊
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山内 忠豊(やまうち ただとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐高知藩の第3代藩主。
慶長14年(1609年)10月29日、第2代藩主・山内忠義の長男として生まれる。通称は伊(猪)右衛門。
明暦2年(1656年)7月3日、父の忠義が中風を患って隠居したため、その後を継いで藩主となった。忠豊は父の命に従って引き続き野中兼山を登用し、伊予宇和島藩との境界線をめぐる争いにも決着をつけた。
ところが、忠豊は兼山のことをあまり快く思っていなかった。そのため、父が重病に倒れた頃から兼山の改革に対する反対派である生駒木工らと結託して兼山を弾劾したのである。そしてさらに叔父の伊予松山藩主・松平定行の助けを受けて、寛文3年(1663年)7月に兼山を失脚させてしまったのである。これを、「寛文の改替」という。ちなみに兼山は、わずか3ヵ月後の10月、失意のうちに49歳で病死した。父の忠義も翌年に亡くなり、忠豊はいよいよ自らが政治を行なうようになる。
しかしわずか5年後の寛文9年(1669年)6月15日、長男・山内豊昌に家督を譲って隠居し、直後の8月5日に死去。享年61。