領事裁判権

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領事裁判権(りょうじさいばんけん)とは、不平等条約によって定められた治外法権のひとつで、在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国に則り裁判する権利を言う。

概要

領事裁判権とは該当国人に関する裁判を領事裁判所により行うことを認めた外交条約であるが、その領事裁判の管轄と適用法規については実際には必ずしも明瞭でなく[1]、領事裁判権と治外法権はしばしば混用されている。近代の意味における国家や国民の概念が明瞭でなく、また外国人の国籍確認が不分明であるにもかかわらず、条約としての領事裁判条項は容易に締約され、のちに不平等条約として問題となるのが通例であった。

外国諸法に関する知識や判例などの情報がない状況下で行われる領事裁判は(本国法や国際法に照らして)正当性のない判決がしばしば下された。本来は領事警察権が及ぶ領域(租界や居留地)を想定したものであっても当該国の全域で適用され、二重法体系を生み当該国の主権を簒奪する手段となった。

日本の場合、いかなる条約においても日本に在住する外国人に治外法権を認めたことはない[2][3]。認めたのは日本人に対する外国人の犯罪に対する裁判をそれぞれの国の在住領事に委ねるということだけであった。これが治外法権であるかのように誤解され、外国人がすべて課税を免除され、日本の一切の行政権に服従しないようになったのは外国人の横暴とこれを黙認して既成事実化した日本人役人の怯懦のためであった。領事裁判権については締結の当時それが不平等条約であり、将来どのような惨禍をもたたらすかについて全く理解されておらず、むしろ日本側は進んで歓迎さえしたもので、ハリスをして意外の思いをさせるものであった[4]

歴史

治外法権による領事裁判権は、15世紀オスマン帝国が、ヴェネツィアジェノヴァに対し恩恵として与えたのに始まった。近代に入り、東アジア諸国では近代的な法制が未整備であって欧米人を東アジア諸国の裁判権に服せしめるのは適当でないことを理由に、1842年南京条約中国に押し付けられたのをはじめ、タイ王国日本併合以前の朝鮮でも行われた。

日本

テンプレート:Main 日本では1858年に締結された日米修好通商条約

第6條  日本人に對しを犯せる亞墨利加(アメリカ)人は、亞墨利加コンシュル裁斷所(領事裁判所)にて吟味の上、亞墨利加の法度(法律)を以て罰すへし。亞墨利加人に對し法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。

とあり、その後安政年間にイギリスフランスオランダロシアと締結した安政五カ国条約にすべて領事裁判権の定めがある。

領事は本来、外交官であって裁判官ではないから、領事裁判ではしばしば本国人に極めて有利な判決が下された。領事裁判権撤廃は明治政府の外交にとって大きな課題となり、1871年末からの岩倉使節団による予備交渉から撤廃の努力を始めた。1877年ハートレー事件1879年ヘスペリア号事件などによって領事裁判権撤廃は国家的課題として当時の国民にも理解されるようになった。1886年ノルマントン号事件1892年千島艦事件もまた、領事裁判権撤廃問題とからんで大きな政治問題となった。国内政治にはおいては硬六派をはじめとする対外硬とよばれる政治グループを生み、かれらによって現行条約励行運動という政治運動が展開された。井上馨大隈重信ら歴代の外交担当者も条約改正に鋭意尽力した。1888年日墨修好通商条約を皮切りに法権の回復が実現し、第2次伊藤内閣陸奥宗光外務大臣の下、駐英公使青木周蔵の努力によって、1894年日清戦争開戦直前に日英通商航海条約が結ばれて領事裁判権撤廃が実現した。この年から翌年にかけては他の欧米各国とも同様の改正条約が締結された。改正条約の発効は、調印より5年を経過した1899年(明治32年)からであり、これにより日本では国内の外国人居留地が廃止され内地雑居が実施された。

朝鮮

朝鮮における領事裁判権は第二次日韓協約以降併合へ向けての外交的課題であったが、最終的には朝鮮法の確立をまたず日本法を朝鮮に適用することで撤廃交渉にあたるものとし、1910年日韓併合条約時における「韓国併合に関する宣言」において、韓国が諸国と締約していた旧条約の全ての無効が宣言(第一条)され各国により逐次承認された[5]

中国

テンプレート:See also 中国における領事裁判権の撤廃交渉は、1902年英清通商航海条約改正交渉、および1903年清米条約日清追加通商航海条約などに遡ることができる。これらにおいて列強は中国の治外法権撤廃に原則的に同意する一方で撤廃条件を留保しており実際の撤廃につながることはなかった。辛亥革命により中華民国が成立した1912年以降も、1919年パリ講和会議1921年ワシントン会議などでも繰り返し撤廃要求が提示された。

1925年12月にはワシントン会議にもとづく治外法権委員会が召集されたが、列強は当初から消極的であり中国司法の不整備などを理由に撤廃要求を事実上拒否した。この1925年五・三〇事件など中国ナショナリズムが高揚した年であり不平等条約撤廃と法権回復運動は国民政府および北京政府の対外基本要求となった。北伐後の国民政府(蒋介石政権)は、高まる中国ナショナリズムを背景に国権回復運動を展開し、対外的には強硬な撤廃要求を提示しつつも漸進主義を採用した。1929年12月28日の治外法権撤廃宣言を公知後、1931年5月に管轄在華外国人実施条例を提示するなど強硬に出たものの実質において引き続き各国と交渉して円満な解決を図る方針がとられた。

イギリスとは1931年6月5日に治外法権撤廃を旨とする条約草案が仮調印され、アメリカも同じような条約案を7月に起草した。しかし実際には満州事変および日中戦争の勃発、太平洋戦争への拡大などの時節を経たのち英米による治外法権の撤廃は1943年のこととなった[6]

タイ

テンプレート:See also タイは1865年、フランスとのあいだに修好通商航海条約を結んだが、これは一種の不平等条約であった。1914年よりはじまった第一次世界大戦では、不平等条約の改正を目的に、連合国として参戦した。これにともない、大戦後はドイツオーストリアなど同盟国とのあいだで結んでいた不平等条約の改正に成功した。1932年立憲革命ののち、民主政体による法典整備がなされた結果、領事裁判権の撤廃が実現した。

脚注

  1. 「明治期日本の中国・朝鮮に於ける領事裁判に関する基礎的考察」中網栄美子[1]PDF.P.6脚注
  2. 外交慣例によるそれは除く。
  3. 「日本における条約改正の経緯」木村時夫(早稻田人文自然科學研究1981.3)[2][3]PDF-P.2
  4. 「日本における条約改正の経緯」木村時夫(早稻田人文自然科學研究1981.3)PDF-P.3
  5. 「日本の韓国司法権侵奪過程」小川原宏幸(文学研究論集1999.9.30)[4]PDF-P.15他[5]
  6. 「治外法権撤廃と王正廷」高文勝(日本福祉大学情報社会科学論集2003.10.28)[6]

文献情報

  • 「第一次大戦後の在華外国人管理問題」貴志俊彦(アジア研究2006.6)[7]

関連項目