前田斉広

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前田 斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩の第11代藩主。加賀前田家12代。第9代藩主前田重教の次男。

来歴

金沢にて生まれる。重教が弟の第10代藩主治脩に家督を譲って隠居した後、生まれた息子である。寛政7年(1795年)、兄の斉敬が夭逝したため、代わって藩主治脩の養子となる。翌寛政8年(1796年)11月に江戸に出府、12月に名(幼名)を亀万千から勝丸、さらに犬千代と改めた上で、通称を又左衛門、利厚とする。寛政9年2月、将軍徳川家斉より偏諱を授かり斉広に改名する。正四位下左近衛権少将、筑前守に任じられる。享和2年(1802年)に、治脩の隠居により家督を継いだ。加賀守を称し、同年6月に左近衛権中将に任じられる。

治世の当初は藩の政治改革を試みたが、大きな効果を挙げず挫折した。文政5年(1822年)、嫡男の斉泰に家督を譲って隠居し、肥前守を称した。文政7年(1824年)に43歳で没した。

芥川龍之介の短編小説「煙管」(1916年)では、金無垢の煙管をモチーフとして、坊主たちと役人たちと斉広(作中では名を「なりひろ」と読んでいる)との心理的駆け引きがユーモラスに描かれている。

系譜

  • 正室:琴姫(尾張徳川宗睦養女・高須松平勝当女、のち離縁)
  • 正室:夙姫(隆子・眞龍院、鷹司政熙二女)
  • 側室:栄操院 八尾(家臣・小野木之庸女)
    • 長女:直姫(1809年 - 1825年) - 小倉藩小笠原忠徴婚約者
    • 長男:斉泰(1811年 - 1884年) - 加賀藩12代藩主
    • 次女:厚姫(1813年 - 1852年) - 会津藩主松平容敬
    • 四女:寛姫(1815年 - 1856年) - 小倉藩主小笠原忠徴室
    • 次男:他亀次郎(1817年 - 1825年)
    • 六女:郁姫(1818年 - 1829年) - 鷹司輔熙婚約者
    • 七女:寿々姫(1819年 - 1835年) - 家臣・本多政和室、次姫と双生児
    • 八女:次姫(1819年 - 1823年)
    • 四男:延之助(1821年 - 1834年)
  • 側室:遠成院 留奴(家臣・坂井成美女、のち家臣・沢田施政に嫁す)
    • 三女:勇姫(1813年 - 1875年) - 大聖寺藩主前田利極
  • 側室:貞成院 登佐(加藤伝左衛門孫女)
    • 五女:タカ姫(1818年 - 1831年) - 久留米藩有馬頼永婚約者
  • 側室:月光院 里(家臣・安田忠義女、のち家臣・不破方叙に嫁す)
    • 三男:為三郎(1819年 - 1819年)

初め正室の琴姫とは享保3年(1803年)12月結婚したが、2年後の文化2年(1805年)8月、琴姫は病気を理由に実家高須藩市ヶ谷藩邸に移ったまま戻らず、翌3年8月離縁した。後に近衛基前に再嫁している。継室の夙姫とは文化4年(1807年)12月に結婚した。前田家は後添えはもらわぬと称していたというが、斉広は慣例を破って継室を迎えた。また、初めての公家からの正室であった。

斉広の代の家臣

文政元年の江戸武鑑で見られる斉広の主要家臣は以下のとおり。

【八家の家老、年寄】長甲斐守(附役兼務)、前田伊勢守本多安房守横山山城守前田土佐守奥村助右衛門村井又兵衛奥村左京、前田右近
【その他の家老、年寄】津田玄蕃横山蔵人、前田織江、前田修理(附役兼務)、前田兵部、前田権佐、前田式部、前田掃部
用人】大橋作左衛門、渡辺久兵衛、杉江助四郎、寺西平左衛門
【附】(文政元年に単独で附職の者の記載なし)
城使】長瀬善右衛門、岡田十郎左衛門、大島三左衛門、里見七左衛門

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