福原元たけ

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Mboxテンプレート:Ambox-mini テンプレート:基礎情報 武士 福原 元テンプレート:CP932フォント(ふくはら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士長州藩の永代家老。福原越後の名で知られている。長州藩支藩である徳山藩主・毛利広鎮の六男。

生涯

文化12年(1815年)生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士・佐世親長益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元(在任:1824年 - 1836年)から偏諱を受けたものと推測される。嘉永4年(1851年)、家老に昇進するが、家老にしては家柄が低すぎることから[1]安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した[2]

その後は国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、のちの敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、来島又兵衛久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元テンプレート:CP932フォントは蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。

その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元テンプレート:CP932フォントは禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相益田兼施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、元治元年(1864年)、岩国の龍護寺で自害した。享年50。

寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。

養嗣子は福原姓を憚って、鈴尾五郎(のち毛利敬親の1字を受けて鈴尾親徳)[3]と名乗ったが、後に復姓して福原良通と名乗った。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist
  1. 佐世家佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。翻って福原氏(安芸福原氏)は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏を祖に持つ、代々宿老の家柄であった。
  2. 福原氏への転出の理由としてはもう1つ、元テンプレート:CP932フォント自身が、当時の藩主・毛利慶親(敬親)が養嗣子としていた毛利定広(のちの元徳)の実兄であったことも関係しているものと推測される。以後も国家老として藩主を補佐する立場にあった。
  3. 「鈴尾」は、安芸福原氏発祥の城名に因んだものである。