太田牛一

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太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず、1527年大永7年) - 1613年慶長18年)3月)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。和泉守。通称は又助(またすけ)。牛一の読みは、ぎゅういちうしかずごいちなどの説がある。また、織田信長右筆であったとする説はテンプレート:要出典範囲実際は誤り。

生涯

大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・名古屋市北区)に生まれる。成願寺 (名古屋市北区)において僧侶をしていたが、旅の僧に織田信長の話を聞き、還俗し織田家家臣になった。

当初は織田氏の家臣・柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、信長の直臣となる。天文23年(1554年)、安食の戦いに参加していたことが確認できる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏堂洞城攻略では弓をもって活躍したという。その後は側近として、主に政治的手腕をもって京の寺社との交渉など内外の諸問題を広く治め、本能寺の変の際には近江国の代官を務めていた。変後には丹羽長秀に2000石をもって仕えたが、後に豊臣秀吉に召し出され、文禄2年(1593年)には弓大将として肥前名護屋に在陣。文禄3年(1594年)、明使の接待をつとめ、慶長3年(1598年)の醍醐の花見では秀吉の側室三の丸殿の警護を務めた。晩年は、大坂天満にて隠居生活を送った。

慶長18年(1613年)3月、病死。

文才に優れ、信長・秀吉・秀次秀頼家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である『信長公記』が特に有名。 長篠の戦を描いた屏風『長篠合戦屏風』は牛一の記した記録をもとに描かれており、安土城についても細部まで記録していた。

天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なものでは天正17年(1589年)のもので「牛一」と署名している。よって信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたと思われる。

子孫

子孫は孫の宗古が前田利常に仕え、以来加賀藩士として続いた。

著作

参考文献

  • 金子拓『織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』勉誠出版、2009年

関連項目

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