朱雀大路
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朱雀大路(すざくおおじ/しゅじゃくおおじ)は、古代東アジアにおける都内の大路で、条坊制の都市において宮城・官衙の正面から南方に向かう道の事。名称は南方の守護神である朱雀に因む。
中国唐王朝時代の条坊制に基づいた長安に始まり、冊封制度により周辺諸国に波及。日本にも遣隋使、遣唐使を通じて条坊制が伝わり、最初の整備都市藤原京造営時に採用された。しかし、当時の持統天皇は朱雀大路の役割を理解せず、2、30メートル程の小路に造ってしまった。そのため人の行き来が窮屈になり、その上天皇への閲兵式、凱旋行進が出来ない状態となった。なお、藤原宮の南面から直進した途中地点より藤原京以前からのものとみられる古代寺院の遺構(和田廃寺)が発掘され、藤原京が持つ構造的問題(既存施設の存置)から朱雀大路の整備がされなかった可能性も指摘されている[1]。
後の平城京、平安京はこうした欠陥をなくし、数十メートル単位の大路に造営。都を南北に走り、首都正門羅城門に始まり、大内裏正門朱雀門に終わる。平城京の朱雀大路は幅約75メートルあったという。
しかし律令制の崩壊、朝廷の没落に伴い次第に市街地の整備もされなくなり、都の中心も東へ移動し既に朱雀大路は中央通りとしての役割を果たさなくなった。
大宰府においては政庁地区から伸びる中央南北大路の事を平城京・平安京の例に倣い朱雀大路と呼ぶ事もある。
中国でも宋の時代に入ると条坊制に基づいた都は余り作られなくなり、朱雀大路も見られなくなった。
脚注
- ↑ 網伸也『平安京造営と古代律令国家』塙書房、2011年、pp.31-32