向朗

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向 朗(しょう ろう、? - 247年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。蜀漢に仕えた。巨達。甥は向寵。子は向条。荊州襄陽郡宜城県の人。

若い頃、司馬徽に師事した経緯や、生まれが荊州であったことから、徐庶龐統韓嵩らと親交があった。学門の道よりも政治の道を選び、刺史劉表に仕官して臨沮県長となった。劉表死後は劉備に仕えた。行政能力に優れ、荊州南部4郡を得た際は秭帰・夷道・巫・夷陵の4県を任された。入蜀後は巴西太守・牂牁太守・房陵太守など、郡太守を歴任した。

劉禅が即位し、諸葛亮丞相になると歩兵校尉となった。王連の没後は彼に代わりその長史(幕僚の長)となり(王連伝)、225年の南征の際に留守を守った。227年北伐が開始されると、留府長史が張裔に交代となったため(楊洪伝)、漢中に赴いた。しかし向朗は平素より馬謖と親しかった為、街亭の戦いでは馬謖が戦場から自分の下に逃亡してきた際に黙認した。このため諸葛亮に恨まれ免職された(馬謖伝には記述が無い[1])。

しかし数年後、光禄勲として復職を許された。諸葛亮の死後は左将軍・行丞相事に昇進した。その後、さらに以前の(街亭の戦いを参照)功績が評価され顕明亭侯に封ぜられた。位も特進三公に匹敵する待遇)に昇進した。

若い頃から学問を好んでいたため、長史を辞めて公務から解放された後は、古典の研究に勤しむようになり、80歳を過ぎても自ら書物を校訂してやまなかった。多くの客と接し広く弟子たちを受け入れたが、古典の語義のみを話題とし、世相については関わろうとしなかったため、賞賛された。247年に死去した。

脚注

  1. 但し坂口和澄の『正史三國志群雄銘々伝』では「大事な内容は関連人物の列伝に分散して記述してある」と指摘した上で「馬謖は戦場から逃亡したが、その後捕縛され間もなく処刑された」と述べている。