交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)

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交響曲第7番ハ長調作品60は、ソ連の作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチの作曲した交響曲である。1942年3月29日にプラウダ紙上にて

「私は自分の第七交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」

と作曲者によって表明されたことから『レニングラード』という通称を持つ。

概要

戦火の中で作曲

ショスタコーヴィチの全作品中でも交響曲第5番と並び最も有名かつ人気のある曲のひとつでもあるが、題材や書法を巡って一部には「壮大なる愚作」との評もある。ショスタコーヴィチの交響曲のなかで最も演奏時間が長い。

第二次世界大戦のさなか、ナチス・ドイツ軍に包囲(レニングラード包囲戦)されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)市内で作曲された戦争をテーマとした交響曲として知られる。音楽の内容はきわめて壮大であり、ナチスのファシズムへの反感もあって初演当時から共産圏はもちろん非共産圏においても高く評価されていた。しかしそこにはソ連のプロパガンダを強く感じさせるものもあり、「壮大なる愚作」との評もこのことと関係がある。そのため、冷戦の激化とともに作品の評価の下がった時期もあった。

1970年代後半に出された「ショスタコーヴィチの証言」でこの作を「スターリンによって破壊され、ヒトラーによってとどめを刺された」とレニングラードを意味すると書かれたころに評価が変わり始めた。

作曲者の発言

作品完成直後の1941年12月27日に、疎開先クイビシェフでショスタコーヴィチ家のパーティーに招かれた隣人フローラ・リトヴィノワは、作曲者の次のような発言を回想している。
「ドミトリー・ドミトリエヴィチは言った。『ファシズム、それはもちろんあるが、ファシズムとは単に国家社会主義ナチズム)を指しているのではない。この音楽が語っているのは恐怖、屈従、精神的束縛である』。その後、ドミトリー・ドミトリエヴィチは、第7番ではファシズムだけでなくソビエトの全体主義も描いたと語った。」[1]

9月17日のラジオ放送

1941年にはショスタコーヴィチは,「人類の偉大な天才ウラジーミル・イリイチ・レーニンにささげる私の交響曲第7番を完成させたいと思っている」と言明していたが[2]、1941年9月17日の作曲者によるラジオ放送は、多少のプロパガンダ的な要素もあるが多くの市民に感動を与え、抗戦意欲を高めた。「一時間前、私は、新しい交響的作品の最初のふたつの2楽章を書きあげました。」という呼びかけで始まる放送は、作品完成の暁には第七交響曲となることを説明したあと、故郷レニングラードへの熱い想いを訴え「・・・わたくしは、かつて一度も故郷を離れたことのない根っからのレニングラードッ子です。今の厳しい張り詰めた時を心から感じています。この町はわたくしの人生と作品とが関わっています。レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう。」としたあと、この作品を市民の前で発表することを誓って終わっている。[3] [4][5]このラジオ放送の中で「この町で普段と変わることなく日常生活が営まれていることをお伝えしたいからです」という部分があるが、そのレニングラードを、すでに飢餓という亡霊が徘徊していた[6]

歴史的再評価

現在ではショスタコーヴィチはこの作品においてナチス・ドイツのみならずソ連政府の暴力をも告発しているのだという説が有力になりつつある。そのため記憶を現代に伝える歴史的な記念碑的作品としての見方もあり、再評価の動きが高まりつつある。

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作曲

レニングラード包囲前の1941年8月頃から作曲が開始され、12月17日に完成。ただし、第1楽章はもっと前から出来上がっていたとする証言もある。 ショスタコーヴィチは、独唱、コーラスとオーケストラのための、ダヴィデの詩篇のテキストに基づく曲を作曲し始めたが、7月19日にはその構想を捨て、のちに交響曲第7番の一部となる曲を書き始めた。それは単楽章で最後は何らかの合唱で終わるはずのものであったが、このような過程を経て最終的には4楽章の形に速やかになった。[7]

初演

世界初演
1942年3月5日3月29日説あり)、臨時首都・クイビシェフにてサムイル・サモスード指揮、ボリショイ劇場管弦楽団。初演後、楽譜は「国家機密」扱いとされクイビシェフでマイクロフィルムに収められた後陸路でテヘランに運ばれカイロ経由で連合国側国家に運ばれた。また、5月末にはモスクワで初演された。
海外初演
1942年6月29日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにてヘンリー・ウッド指揮。
アメリカ初演
1942年7月19日アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、NBC交響楽団。全世界にラジオ中継された。アメリカ国内では1942年からその翌年にかけて62回も演奏されている。初演の権利をめぐってトスカニーニ、レオポルド・ストコフスキーセルゲイ・クーセヴィツキーの3者で争奪戦が起こり「放送初演:トスカニーニ、公開初演:ストコフスキー、初録音:クーセヴィツキー」で決着したが、結局正式初演を行ったのはトスカニーニであった。
レニングラード初演
先立って7月7日に、レニングラードから疎開していたエフゲニー・ムラヴィンスキーレニングラード・フィルハーモニー交響楽団ノヴォシビルスクにて演奏を行った。そして1942年8月9日カール・エリアスベルク指揮 レニングラード放送管弦楽団(現在のサンクトペテルブルク交響楽団)でレニングラード初演が決行された。包囲下の中、特別機で総譜が届けられ前線から急遽演奏家たちを呼び戻しオーケストラの欠員を補充した。この日はまさにドイツ軍のレニングラード侵入予定日であったが、演奏会のためにレオニード・ゴヴォロフが軍事作戦を発動させてソ連軍が激しい砲撃を行ったため、ドイツ軍の攻撃が止み、満員の聴衆は砲声が聞こえないことにいぶかりながらフィルハーモニーホールに集まった。
日本初演
1950年5月17日、東京の日比谷公会堂にて上田仁指揮、東宝交響楽団

曲の構成

演奏時間は約75分。各楽章の副題は、ナチスの侵略を想起させると判断した作曲者本人によって廃案とされたものである。

第1楽章

Allegretto(「戦争」) 特殊なソナタ形式。25 - 30分。

提示部では、まず生命力に満ちた第1主題「人間の主題」が、力強く描かれる。第2主題「平和な生活の主題」は、極めて澄み渡った美しい主題であり後半においてピッコロ、独奏ヴァイオリンに印象的な高音のモチーフが現れて消えてゆく。その静けさを小太鼓のリズムが打ち破って、「戦争の主題」に置き換えられた展開部に突入する。この展開部はモーリス・ラヴェルの『ボレロ』に影響を受けたといわれ、「戦争の主題」が小太鼓のリズムにのって楽器を変えながら12回繰り返される(この小太鼓の用法はカール・ニールセンの『交響曲第5番』との関連が指摘される事がある)。その結末において全合奏による暴力的な侵攻が描き出された後、第2金管群が抗戦のテーマを訴えしばらくの間、2群の金管を擁した大迫力の音楽が続く。小太鼓が途切れた時点で第1主題が悲痛に叫ばれると音楽は静かになり、再現部に入る。まずは第2主題が提示部とは対照的にファゴットにより暗く悲しげに現れ第1主題は明朗に奏でられるが、やがて悲劇的な色彩を強める。極めて静かに奏でられるコーダでは戦争の継続を示す「戦争の主題」が再び登場するが、その活動的なイントネーションは第4楽章における勝利を予感させる。

  • 提示部第1主題「人間の主題」は「ソヴィエト国民の持つ勇気と自信・・」第2主題「平和な生活の主題」は、第1主題とともに「自由なソヴィエト人の肖像その勇気と堅忍・・・理想への熱望ともにみられよう」というような解釈がかつてはよくなされていた[8]
  • 「戦争の主題」は前半部はムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドウノフ』第1幕、自作の『ムツエンスク郡のマクベス夫人』からの、後半部はレハール作曲のオペレッタ『メリー・ウィドウ』からの「ダニロ登場の歌」の引用であるという説がある[9][10]。かつてはこの主題は勇猛果敢なソビエト軍を表現しているという解釈が一般的であったが、前者は、民衆が脅されてボリスに帝位につくよう懇願するのとカテリーナが自らの犯罪をカムフラージュするための嘘泣きする主題でありすこぶる意味深長である。テンプレート:要出典範囲
  • ダニロの歌には「それでも俺はマキシムに行くぞ。あすこは神聖な祖国を忘れさせてくれる」という歌詞があり、作曲者の子息の名がマキシムである事を考えてもかなり重要な意味を持つといわれている[11]
  • 「戦争の主題」はバルトークが『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章で引用しており、ショスタコーヴィチへの揶揄ともナチス批判とも取れる。

第2楽章

Moderato. Poco allegretto(「回想」) 4拍子のスケルツォ。約10分。

木管による哀愁を帯びた主題が印象的である。戦闘の苛烈さを表すかのような金管の激しい咆哮でクライマックスを迎えるが、再現部で悲しげな表情に戻り静かに終わる。

第3楽章

Adagio(「祖国の大地」) アダージョ。約18分。

ショスタコーヴィチには珍しいタイプのアダージョであり、比較的叙情的で明るい内容を持つ。冒頭、崇高だが悲痛な嘆きをも思わせるコラール主題がffで奏された後、陽気で息の長い旋律が現れる。中間部では大地を疾走するような音楽が続き、再現部になる。バロック様式をとりながら祖国愛を表現している。第4楽章へ切れ目なく続く。

第4楽章

Allegro non troppo(「勝利」)約18分。

勝利のフィナーレ。大きく3部分に分かれている。第3楽章から切れ目なく続く地響きのような低音とともに序奏が始まる。ここで登場する「タタタター」という同音連打はモールス信号の「V」(・・・-)すなわち「Victory」を表すとされ、曲中で執拗に登場する(ベートーヴェン「運命」の動機のパロディという説もある)。急速なアレグロ調で開始する重要なモチーフが第1部で圧巻の展開を見せる。「作品の輝かしい帰結」と称された第2部では、サラバンド調の音楽が遅いテンポで続く。それは戦争の犠牲者を哀悼するようである。第3部においてはその速度を維持したまま基本モチーフが重厚に展開され、結末へのただ1本のクレッシェンドを形成する。その頂点で第1楽章の第1主題(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。

楽器編成

ピッコロ1、フルート2(2番はアルトフルート持ち替え)、オーボエ2、コーラングレ1、E♭管クラリネット1、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、コントラファゴット1
ホルン4+4、トランペット3+3、トロンボーン3+3、チューバ1
ティンパニトライアングルタンバリン小太鼓シンバル大太鼓タムタムシロフォンピアノハープ2
第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラチェロコントラバス

金管は第1金管群と第2金管群に分かれている。

その他

  • この作品の引用(管弦楽のための協奏曲)で知られるバルトークは「国家の奴隷にまでなって作曲するものは、馬鹿」というコメントを残した。このコメントは当然リアルタイムでショスタコーヴィチの耳に入っており、後日バルトークの引用が様々な形で含まれることとなった。交響曲第13番の第2楽章はその一例である。
  • 映画「レニングラード攻防戦」(1974~1977年、ソ連)の劇中でBGMとして使用されている。
  • 1990年アーノルド・シュワルツェネッガーが出演したアリナミンV武田薬品工業)のコマーシャルで、第1楽章の「戦争の主題」に歌詞を付けたものが使用された。「ちちんVVの唄」(作詞:魚住勉、歌:CM NETWORK)の曲名でCD化されている。
  • 2013年4月13日放送の BS世界のドキュメンタリー オリバー・ストーンが語るアメリカ史「第1回」にBGMとして使用されている

この曲を録音したレニングラード出身の指揮者

脚注

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関連項目

ショスタコーヴィチの交響曲のうち、第7番から第9番までは、第二次世界大戦と深い関係がある。

  • 第8番 - 第7番において戦争の表面的な表現ばかりに注意が向いてしまったことに対するショスタコーヴィチ自身の不満から、第8番では戦争によって生じる内面的な悲しみを表現しようと試みている。
  • 第9番 - 第二次世界大戦の勝利を記念して作曲された作品だがあまりにも軽妙洒脱であったために当局の意に沿わず、これが後のジダーノフ批判へとつながっていく。


テンプレート:ショスタコーヴィチの交響曲
  1. ローレル・E・ファーイ 『ショスタコーヴィチ ある生涯』 藤岡啓介/佐々木千恵訳、アルファベータ、2005年(改訂新版)、167頁。千葉潤 『ショスタコーヴィチ』 音楽之友社、2005年、97頁。
  2. ローレル・E・ファーイ編『Shostakovich and His world』107頁。
  3. 1973 LP Record set: "Dmitri Shostakovich speaks" - "Иэ Выступления ПО РАДИО Melodia  Moscow, 40-41705-12所収
  4. テキストは、ローレル・E・ファーイ 前掲『ショスタコーヴィチ ある生涯』163頁。
  5. 千葉潤『ショスタコーヴィチ』音楽の友社 2005年 93~94頁。
  6. ローレル・E・ファーイ 前掲『ショスタコーヴィチ ある生涯』163頁
  7. エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006年、ISBN 978-0571220502 172頁。
  8. 井上頼豊『ショスタコーヴィッチ』1957年P117~118
  9. ソロモン・ヴォルコフ『Testimony ショスタコーヴィチの証言』概説1979年
  10. 柴田南雄『ショスタコーヴィッチの「回想録」』「海」1980年6月号
  11. ヴォルコフ『Testimony ショスタコーヴィチの証言』概説1979年