浅野吉長
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浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸広島藩の第5代藩主。浅野家宗家6代。
生涯
天和元年(1681年)7月1日、第4代藩主・浅野綱長の長男として江戸で生まれる。
元禄8年(1695年)、元服に際して将軍・徳川綱吉、父・綱長双方より偏諱を受け、吉長と改名する。宝永5年(1708年)に家督を継ぐ。
正徳2年(1712年)11月、林信篤から伊達家との和解を説得される。同時に稲葉正往も伊達吉村に浅野家との和解を説得した。先祖の浅野長政は、伊達政宗から絶交の通告を受けており、それ以来浅野家と伊達家は絶交状態になっていた。正徳3年1月、再び林信篤から伊達家との和解を説得される。稲葉正往・林信篤は、浅野家と伊達家の不和は江戸城内で見苦しいこと、他家でも和解の事例はあることなどを指摘し、説得を試みたのである。当初、吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった前田綱紀、徳川吉通らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側は国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。
享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。享保15年(1730年)、弟の浅野長賢に対して広島新田藩3万石を分知する。元文4年(1739年)、宮島の大鳥居を再建している。
湯治場「湯の山温泉」は吉長公ゆかりの温泉として知られ、寛延3年(1750年)に神殿・拝殿・旧湯治場を再建・竣工した。
宝暦2年(1752年)に広島で死去した。享年72。跡を長男・宗恒が継いだ。
人物・逸話
- 藩政改革で成功を収めたことから、「江戸七賢人」の1人に数えられ、広島藩中興の英主・名君といわれる。
- 正室の節姫は加賀藩主・前田吉徳の姉であり、吉長より年上の姉さん女房で気も強かった。しかも、嫡男の宗恒が彼女との間に生まれていたため、吉長は側室を持つことも許されず、意見もできなかった。しかし、吉長も40歳を過ぎると次第に若い女性を望むようになり、あるときにお忍びで吉原に行って、気に入った遊女2人を愛妾にしようとした。これを知った節姫は、吉長への抗議のために切腹して諫めたという。吉長はこれに驚いて愛妾2人を遠ざけ、節姫を厚く弔い、吉徳と相談の上で幕府に対しては節姫は急病死と届け出て改易・減封を免れたという。
- 浅野吉長は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である長生院の子孫であり、また祖母(九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼の子孫である。つまり、秀吉と高台院の傍系の血統である。また吉長は、徳川家康と前田利家の血統も受け継いでいる(母の貴姫が尾張藩2代藩主徳川光友の娘、曾祖母の満姫が前田利常の娘で前田利家の孫かつ徳川秀忠の外孫、曽祖父浅野光晟が徳川家康の外孫)。特に家康の血は3つの流れを受け継いでいる。