アトレティコ・マドリード
テンプレート:サッカークラブ クルブ・アトレティコ・デ・マドリード(Club Atlético de Madrid SAD、テンプレート:IPA-es)は、スペインのマドリードを本拠地とするサッカークラブチームである[1]。アトレティコ・マドリードあるいはアトレティコとして一般的に知られている。
リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビションに籍を置く。「アトレティコ」は「総合スポーツ」(Athletic)の意。
「アトレティコ」という名称がつくサッカークラブは世界中に多数存在するが、略称としての「アトレティコ」は本クラブを指すことが一般的である。ただし、日本では「アトレチコ・マドリード」などと表記される場合がある。
目次
概要
アトレティコはこれまでに、ラ・リーガ優勝10回、コパ・デル・レイ(国王杯)優勝10回、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝1回、コパ・エバ・ドゥアルテ優勝3回を果たし、欧州では1962年UEFAカップウィナーズカップ優勝、2度のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝[2]、2010年と2012年のUEFAヨーロッパリーグおよびUEFAスーパーカップ優勝を果たしている。
Los Colchonerosはエスタディオ・ビセンテ・カルデロン(収容人数54,960人)でホームゲームを開催している[3]。2015年、エスタディオ・ラ・ペイネタ(収容人数7万人)に本拠地を移転する予定である。
ホームユニフォームは赤色と白色の縦縞のシャツに青色のショートパンツ、青色と赤色のソックスである。この組合せは1911年から使用されている。2013-14シーズンのユニフォームサプライヤーはナイキ、ユニフォームスポンサーはアゼルバイジャン政府、京セラである。
アトレティコはレアル・マドリードとバルセロナに次いで、スペインで3番目にサポーターが多いクラブである。また、ソシオの数の面では最も規模の大きなクラブの一つであり、6万5千人を越えるシーズンチケット保持者がいる。
『デロイト・フットボール・マネー・リーグ』によると、11-12シーズンのクラブ収入は約108億円で、欧州第23位、スペインではレアル・マドリードCF、FCバルセロナに次いで第3位である。
これまでに歴史の中、クラブはLos Colchoneros(マットレス、もしくはマットレス屋の意。ホームユニフォームで採用されている赤と白の縦縞がスペインの古風なマットレスと同じ色調であるため。)などの多くの愛称で知られてきた。1970年代は、Los Indios(インディアン)として知られるようになった。これはおそらく外国人選手との契約制限が取り除かれた後に複数の南米選手と契約したことによる。しかしながら、その他にも、スタジアムが河岸にあったため、あるいはLos Indios(インディアン)がLos Blancos(白人の意。アトレティコのライバルであるレアル・マドリードの愛称でもある)の伝統的な敵であったため[4]、など多くの他説もある。
歴史
創設期
クラブの創設は1903年4月26日。クラブの起源は、バスクの名門チーム・アスレティック・ビルバオが、首都マドリードに設置した姉妹チームに遡る。現在、その関係は切れてはいるが、チームカラーがビルバオと同系統なのはそのためである。同じマドリードを本拠とするライバルのレアル・マドリードが主に富裕層の支持を受けるクラブであったのに対し、アトレティコは主に労働者階級の支持を受けて発展してきたクラブであり、サポーターは熱狂的なことで有名である。
1930年代後半から1940年代前半には軍隊のチームとなり、アトレティコ・アビアシオンという名称だった時期がある。10回の優勝のうち2回はこの時期に獲得したものである。現在、その名称はアトレティコの下部組織の名前として残っている。現在のクラブ名になったのは、1947年のことであった。この頃から、徐々に勢いを増していった。後にインテルにグランデ・インテルと称される黄金期をもたらすことになるアルゼンチン人のエレニオ・エレーラが監督に就任してからは、ラルビ・ベンバレクらを擁するチームは国内リーグを連覇した。エレーラが去った後も勢いを増し、1960年代にかけて黄金期を創り出した。しかし、同時期にアルフレッド・ディ・ステファノのレアル・マドリード、ラディスラオ・クバラのFCバルセロナという強大な敵が国内に存在したことから国内でのタイトルを積み上げられず、結果欧州レベルでの実績を挙げることが出来なかった。1959年にはUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)の準決勝まで駒を進めているが、立ちはだかったのは仇敵レアル・マドリードであった(現行のルールなら勝利)。結局、黄金期のアトレティコが得た国際タイトルが、1962年のUEFAカップウィナーズカップ優勝のみに留まった。
リーガ3強時代から2部降格へ
1974年にはUEFAチャンピオンズカップで決勝戦に進出。バイエルン・ミュンヘンを相手に0-0のまま延長戦となり、114分のルイス・アラゴネスのゴールで先制をすると、そのまま延長戦終了間際までリードを保っていた。しかし、試合終了30秒前、シュヴァルツェンベックに30メートル以上のミドルシュートを決められ、同点に追いつかれた。結局2日後の再試合では敗れ、準優勝に終わった。しかし、その後出場を辞退したバイエルンに代わって出場したインターコンチネンタルカップでは、アルゼンチンのCAインデペンディエンテを下し、世界一の座に輝いた。なおスペインにおいて、インターコンチネンタルカップを獲得しているクラブは、レアル・マドリードとアトレティコだけである(大会名称が変わったFIFAクラブワールドカップはFCバルセロナも獲得している)。
1987年に事業家のヘスス・ヒルが会長に就任。ヒルは潤沢な資金をアトレティコに投下し強化を推進する一方で、下部組織を解散[5]させたり、また勝てなければ即監督の首を切り、ギロチン・ヒルと揶揄されるなど独裁的な人物として有名であったテンプレート:要出典。
1995-96シーズンには、クラブ史上初めてリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの二冠を達成、これはヒル会長の行った大型補強の成果といえる。他方、1999-2000シーズンにはカルロス・アギレラやジミー・フロイド・ハッセルバインク等の数々の有名選手を擁しながら、不振を極め、2部に降格したが、この不振も会長による独裁の結果、若手育成や継続的補強ができなかったことに起因するものとされるテンプレート:要出典。しかし2部に落ちた時も、ソシオの数は増え続け、テレビの放送の数もほとんど減らず、経済的打撃をほとんど受けなかった。更に、この前年プリメーラ・ディビシオンで得点王を獲得したサルバ・バジェスタが加入した。
復活と停滞
1年での1部復帰が叶わなかったが、ルイス・アラゴネスを招聘し、フェルナンド・トーレスの台頭などもあって、2002-03シーズンに1部復帰を果たした。
2003年にヘスス・ヒルが会長から退任したが、低迷を続けるアトレティコが上昇のきっかけをつかむことはできなかった。新会長エンリケ・セレソは、ヒル時代に蓄積された巨額の負債にも悩まされることとなった。
不振が続く中、2005-06シーズンにはカルロス・ビアンチが監督に就任し、マルティン・ペトロフ、マキシ・ロドリゲス、マテヤ・ケジュマン、ルシアーノ・ガジェッティらを獲得した。優勝候補の一角にも挙げられたが、予想に反しチームは低迷し、前半戦終了を待たずにビアンチは解任された。その後、下部組織からペペ・ムルシアが監督に就任。その後は14年ぶりの6連勝を果たすなど一時調子を上げたが、マキシ・ロドリゲスが代表招集中に怪我をしてから再び失速、最終的には10位でシーズンを終えた。
2006-07シーズンには、メキシコ代表やCAオサスナで実績を挙げたハビエル・アギーレを招聘。更に大型補強をし、再建を図った。しかしリーガ最終順位は7位に終わった。
2007年7月にはフェルナンド・トーレスをリヴァプールに放出した。迎えた2007-08シーズンは、不安定な戦いに終始しアギーレも批判を浴びたが、加入2年目のセルヒオ・アグエロが19ゴール、新加入のディエゴ・フォルランが16ゴールを記録し、新加入のシモン・サブローザ、ラウール・ガルシア、下部組織出身のイグナシオ・カマーチョらも活躍した事で最終順位は4位で、1995-96シーズン以来12年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
2008-09シーズンは、シーズン途中にアギーレが解任されるなど終始不安定ではあったが、終盤戦の6連勝で最終的に4位となり、2年連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。最終節のUDアルメリア戦はエスタディオ・ビセンテ・カルデロンでの1000試合目であり、記念の試合を3-0の快勝で飾った。
2009-10シーズン、序盤は大きく低迷し、2シーズン連続で出場したUEFAチャンピオンズリーグもグループリーグで敗退。前シーズン途中から監督に就いていたアベル・レシーノを解任しキケ・サンチェス・フローレスを招聘した。冬の移籍期間中に獲得したティアゴ・メンデスの活躍もあり、不振に陥っていたチームの建て直しに成功した。UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で終えていたため、UEFAヨーロッパリーグに決勝トーナメントより参戦した。決勝戦でフラムFCをフォルランの2ゴールで2-1と下し、UEFAヨーロッパリーグの初代チャンピオンとなった。また、リーグ戦の最終順位は9位だったが、スペイン国王杯では1999-2000シーズン以来10年ぶりに決勝に進出。セビージャFCに敗れ、準優勝に終わった。
2010-11シーズンは、UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のインテルを2-0で下したが、UEFAヨーロッパリーグではグループリーグで敗退し、1月から2月前半にかけては8敗を喫した。シーズン終盤のセルヒオ・アグエロのゴールラッシュによって、UEFAヨーロッパリーグ出場圏内の7位にこそ位置したものの、キケはシーズンが終わる前に監督からの退任を宣言した。アグエロは移籍を表明した。なお3月の東日本大震災の際には、スペイン在住記者とGoal.comを通じて日本へ応援メッセージが届けられた[6]。
2011-12シーズンは、ヘスス・ガルシア・ピタルチに代わる新スポーツディレクターとしてホセ・ルイス・カミネロを招聘[7]。そして新指揮官には、2003-04シーズンにもチームを率いたグレゴリオ・マンサーノを呼び戻した[8]。移籍の意思を表明していたアグエロが推定4500万ユーロでマンチェスター・シティFCへ[9]、ダビド・デ・ヘアは推定2100万ユーロでマンチェスター・ユナイテッドFCへ[10]、フォルランは500万ユーロでインテルへ[11]移籍した。その一方、UEFAヨーロッパリーグ得点王のラダメル・ファルカオ、アルダ・トゥラン、ローンでジエゴなどを獲得した。しかし、リーグ戦では苦戦を強いられ同年12月にマンサーノを監督から解任した。
シメオネ体制と復権
後任の監督にディエゴ・シメオネが就任するとチームは調子を取り戻し、2年ぶりにUEFAヨーロッパリーグを制覇した。 2012-13シーズンは、UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のチェルシーを破り2度目のUEFAスーパーカップ制覇を達成した。リーグでも2強に次ぐ3位の好成績を収める。さらに、レアル・マドリードとのマドリードダービーとなったコパ・デル・レイ決勝では、延長戦の末14年ぶりとなるダービー勝利を果たし、17年ぶり10回目の国王杯優勝を達成した。
2013-14シーズンは、前年度チーム得点王のラダメル・ファルカオがASモナコに移籍したものの、ダビド・ビジャをFCバルセロナから獲得した。新加入ビジャと、ジエゴ・コスタが2トップを形成し、リーグ序盤からバルセロナ、レアル・マドリードと熾烈な優勝争いを展開した。首位で迎えた最終節、敵地カンプ・ノウでの2位バルセロナとの直接対決で引き分け、18年ぶりにリーグ優勝を達成した。UEFAチャンピオンズリーグでもFCポルトやゼニト・サンクトペテルブルクに勝利し、グループリーグ首位通過を決めた。決勝トーナメントでも、ベスト16でイタリアのACミランを、準々決勝で同じスペインのFCバルセロナを、準決勝でイングランドのチェルシーFCを破って40年ぶりに決勝に進出。しかし、チャンピオンズリーグ史上初の同一都市に所在するクラブ同士の対戦となった決勝戦でレアル・マドリードに屈し、リーグとの2冠はならなかった。
2014-2015シーズンに向けた夏の移籍市場では、前年シーズンのリーグ優勝とCL準優勝の立役者であったジエゴ・コスタ・ティボ・クルトゥワ・フィリペ・ルイスをチェルシーへ売却(クルトゥワはチェルシーからのレンタル移籍期間満了によるもの)。昨季の主力選手の抜けた穴を補填する目的として、バイエルンからマンジュキッチを、ソシエダからグリーズマンを。ヘタフェよりモジャ、ベンフィカからヤン・オブラクを獲得した。
マドリードダービー
テンプレート:Main レアル・マドリードとアトレティコ・マドリードは、対照的なアイデンティティと非常に異なる運命を持つクラブである。歴史的に、レアル・マドリードはエスタブリッシュメントクラブであると長年見られてきた。その一方で、Rojiblancosは常に「sentimiento de rebeldía」(抵抗の意識)を特徴としていた。しかし、初期フランコ時代には、体制に好まれたチームはアトレティコであったテンプレート:Citation needed。1950年代に体制の好みがレアル・マドリードに移るまでは、アトレティコは(Atletico Aviacionと改名し)空軍と関連付けられていた。
確かに、フランコ政権下の独裁国家はスペインが国際的に孤立していた当時、レアル・マドリードのヨーロピアンカップ制覇を政治的に利用しようとしていた。当時ある大臣は「レアル・マドリードはこれまでで最も優れた使節である」と述べたテンプレート:Citation needed。こういった認識は、集合意識に乗り、マドリードのサッカーアイデンティティに重要な影響をもたらしてきている。アトレティコのファンは「Hala Madrid, hala Madrid, el equipo del gobierno, la verguenza del país(ゆけマドリード、ゆけマドリード、政府のチーム、国の恥)」という歌のおそらく本家である。
アトレティコは2012-2013シーズンまでダービーで14戦勝利がなかった。しかしながら、2013年5月17日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの国王杯決勝でレアル・マドリードを2対1で破り優勝を果たし、2013年9月29日にも再びエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにおいて1対0で勝利した。2014年5月25日にはUEFAチャンピオンズリーグのビッグイヤーをかけた決勝の舞台で、延長戦にまでもつれ込む熱戦を演じた。
タイトル
国内タイトル
- プリメーラ・ディビシオン : 10回
- 1939-40, 1940-41, 1949-50, 1950-51, 1965-66, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1995-96, 2013-14
- コパ・デル・レイ : 10回
- 1960, 1961, 1965, 1972, 1976, 1985, 1991, 1992, 1996, 2013
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 2回
- 1985, 2014
国際タイトル
- インターコンチネンタルカップ : 1回
- 1974
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回
- 1961-62
- UEFAヨーロッパリーグ : 2回
- UEFAスーパーカップ : 2回
過去の成績
シーズン | ディビジョン | 順位 | 国内カップ | 欧州カップ |
---|---|---|---|---|
1985-86 | プリメーラ | 5位 | ||
1986-87 | プリメーラ | 7位 | 準優勝 | |
1987-88 | プリメーラ | 3位 | ||
1988-89 | プリメーラ | 4位 | ||
1989-90 | プリメーラ | 4位 | ||
1990-91 | プリメーラ | 2位 | 優勝 | |
1991-92 | プリメーラ | 3位 | 優勝 | |
1992-93 | プリメーラ | 6位 | ||
1993-94 | プリメーラ | 12位 |
シーズン | ディビジョン | 順位 | 試合数 | 勝 | 分 | 敗 | 得点 | 失点 | 勝ち点 | 国内カップ | 欧州カップ | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994-95 | プリメーラ | 14位 | 38 | 13 | 9 | 16 | 56 | 54 | 35 | 準々決勝敗退 | |||
1995-96 | プリメーラ | 1位 | 42 | 26 | 9 | 7 | 75 | 32 | 87 | 優勝 | |||
1996-97 | プリメーラ | 5位 | 42 | 20 | 11 | 11 | 76 | 64 | 71 | 準々決勝敗退 | UCL | 準々決勝敗退 | 準優勝 スーペルコパ |
1997-98 | プリメーラ | 7位 | 38 | 16 | 12 | 10 | 79 | 56 | 60 | ベスト16 | UC | 準決勝敗退 | |
1998-99 | プリメーラ | 13位 | 38 | 12 | 10 | 16 | 54 | 50 | 46 | 準優勝 | UC | 準々決勝敗退 | |
1999-2000 | プリメーラ | 19位 | 38 | 9 | 11 | 18 | 48 | 64 | 38 | 準優勝 | UC | 4回戦敗退 | 降格 |
2000-01 | セグンダ | 4位 | 42 | 21 | 11 | 10 | 59 | 39 | 74 | 準決勝敗退 | |||
2001-02 | セグンダ | 1位 | 42 | 23 | 10 | 9 | 68 | 44 | 79 | 1回戦敗退 | 昇格 | ||
2002-03 | プリメーラ | 11位 | 38 | 12 | 11 | 15 | 51 | 56 | 47 | 準々決勝敗退 | |||
2003-04 | プリメーラ | 7位 | 38 | 15 | 10 | 13 | 51 | 53 | 55 | 準々決勝敗退 | |||
2004-05 | プリメーラ | 11位 | 38 | 13 | 11 | 14 | 40 | 34 | 50 | 準決勝敗退 | 準優勝 UEFAインタートトカップ | ||
2005-06 | プリメーラ | 10位 | 38 | 13 | 13 | 12 | 45 | 37 | 52 | ベスト16 | |||
2006-07 | プリメーラ | 7位 | 38 | 17 | 9 | 12 | 46 | 39 | 60 | ベスト16 | |||
2007-08 | プリメーラ | 4位 | 38 | 19 | 7 | 12 | 66 | 47 | 64 | 準々決勝敗退 | UC | ベスト32 | 優勝 UEFAインタートトカップ |
2008-09 | プリメーラ | 4位 | 38 | 20 | 7 | 11 | 80 | 57 | 67 | ベスト16 | UCL | ベスト16 | |
2009-10 | プリメーラ | 9位 | 38 | 13 | 8 | 17 | 57 | 61 | 47 | 準優勝 | UEL | 優勝 | UCL – グループステージ敗退 |
2010-11 | プリメーラ | 7位 | 38 | 17 | 7 | 14 | 62 | 53 | 58 | 準々決勝敗退 | UEL | グループステージ敗退 | 優勝 UEFAスーパーカップ |
2011-12 | プリメーラ | 5位 | 38 | 15 | 11 | 12 | 53 | 46 | 56 | ベスト32 | UEL | 優勝 | |
2012-13 | プリメーラ | 3位 | 38 | 23 | 7 | 8 | 65 | 31 | 76 | 優勝 | UEL | ベスト32 | 優勝 UEFAスーパーカップ |
2013-14 | プリメーラ | 1位 | 38 | 28 | 6 | 4 | 77 | 26 | 90 | ベスト4 | UCL | 準優勝 |
優勝 準優勝 昇格 降格
現所属メンバー
- 2014年8月10日現在
テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★※1 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 (12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。 (※1)トルコはEU圏外だが、リーガ・エスパニョーラでは外国人枠とは見なさない。
- アトレティコ・マドリードB所属選手
テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
- 監督
テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon ディエゴ・シメオネ
期限付き移籍(レンタル移籍)選手
in テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
out テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
14/15シーズン移籍
歴代会長
- エンリケ・アジェンデ: 1903
- エドゥアルド・デ・アチャ: 1903-1907
- リカルド・デ・ゴンドラ: 1907-1909
- ラモン・デ・カルデナス: 1909-1912
- フリアン・ルエテ: 1912-1919
- アルバロ・デ・アギラル: 1919-1920
- フリアン・ルエテ: 1920-1923
- フアン・デ・エステファニア: 1923-1926
- ルシアーノ・ウルギホ: 1926-1931
- ラファエル・ゴンサーレス: 1931-1935
- ホセ・ルイス・デル・バジェ: 1935-1936
- ホセ・マリア・フェルナンデス: 1936-1939
- フランシスコ・ビベス: 1939
- ルイス・ナバロ: 1939-1941
- マヌエル・ガジェゴ: 1941–1945
- フアン・トウソーン: 1946-1947
- セサレオ・ガリンデス: 1947-1952
- マルケス・デ・ラ・フロリダ: 1952-1955
- フアン・スエボス: 1955
- ハビエル・バロッソ: 1955-1964
- ビセンテ・カルデロン: 1964-1980
- リカルド・イレサーバル: 1980
- アルフォンソ・カベサ: 1980-1982
- アントニオ・デル・オヨ: 1982
- アグスティン・コトルエロ: 1982
- ビセンテ・カルデロン: 1982-1986
- フランシスコ・カステド: 1986-1987
- ヘスス・ヒル: 1987-2003
- エンリケ・セレソ: 2003-
歴代監督
歴代所属選手
GK
DF
MF
FW
スタジアム移転問題
アトレティコは慢性的な財政難に悩まされており、2004年にはホームスタジアムを売却するという話が持ち上がった。アトレティコの現在のホームスタジアムであるビセンテ・カルデロンは、その下を高速道路が通過するという特異な構造を有するものであり、その拡張のためスタジアムの撤去を望んでいたマドリード州自治政府との利害関係が一致した結果であるとのことである。
しかしスタジアム売却後にアトレティコのホームスタジアムとなる予定のラ・ペイネタは、現在の場所から遠い、しかもレアル・マドリードの勢力の強い地域にあるスタジアムであり、また陸上グラウンドも併設されたものであることから、サポーターの不興を激しく買った。
この計画は、2012年マドリード五輪の招致に伴うラ・ペイネタの拡張計画を前提とするものであったため、五輪招致の頓挫によりその先行きは不透明になったが、計画自体は生きており、現在でもサポーターの反対運動が続いている。
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 結果、そこに所属していたラウル・ゴンサレスは最大のライバルであるレアル・マドリードへと移籍し、後にレアル・マドリードのスター選手となった。
- ↑ [1]Goal.com、2011年3月20日
- ↑ アトレティコ新SDにカミネロ氏Goal.com、2011年5月28日
- ↑ アトレティコ新指揮官はマンサーノ氏Goal.com、2011年6月9日
- ↑ http://www.goal.com/jp/news/74/イングランド/2011/07/29/2595024/シティアグエロ獲得を正式発表
- ↑ http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=1648014.html
- ↑ http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/foreign/news/20110830-OYT1T00203.htm
関連項目
- アトレティコ・マドリードB
- 幸谷秀巳 (1994年-1999年にコーチとして在籍)
- 佐伯夕利子 (2004-2005シーズン女子Bチーム監督、2005-2006シーズン女子トップチームスカウティング担当)
- 玉乃淳 1999-2002までユースに所属 (昇格は出来ていない)
- 宮川類 (2007年から5年契約で下部組織に所属)