二重橋
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二重橋(にじゅうばし)は、東京都千代田区千代田の皇居内にある橋の通称である。皇居正門から宮殿へ向かう途上、二重橋濠に架かる鉄橋で、本来の名称は正門鉄橋(せいもんてつばし)である。
正門には皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊がおり、通常一般人は二重橋を渡ることはできない。ただし、事前に手続きをして皇居の参観をする場合は、鉄橋を渡ることができる。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀時には正門が開放され許可なく渡ることができる。
橋の誤認
皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋」という2つの橋がある。「二重橋」とは正しくは奥の正門鉄橋の呼称である[1]。正門(江戸城の西の丸大手門)は普段は閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外は使われない。使用される時は皇居前広場〜正門石橋〜正門〜正門鉄橋〜宮殿というルートをたどる。
奥の鉄橋は、江戸城の西丸下乗橋のあった位置で、木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていた。そこから、「二重橋」と呼ばれるようになった。現在の鉄橋は昭和39年(1964年)に架け替えられたもので、橋桁は二重ではない。手前の石橋は江戸城の西丸大手橋があった位置で、現在の石橋は明治20年(1887年)の建造である。二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋である」との誤認が多い。
「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって架かる橋だから二重橋」というのは正確な解釈ではない。また、手前の石橋を言う場合もあるが前述のとおり誤りである。 テンプレート:-
歴史
- 江戸時代:西の丸が改修された際に架けられる。
- 1888年(明治21年):改修される。橋本勘五郎他、当時の宮大工、武石惣十も監督・設計として関わっていたという説もある。
- 1924年(大正14年):二重橋付近で朝鮮独立運動家が警察官に向けて爆弾を投げつける事件が発生(二重橋爆弾事件)。
- 1954年(昭和29年)1月2日:皇居一般参賀時に一般参賀者が二重橋上で将棋倒しになり、16名が死亡(二重橋事件)。
- 1964年(昭和39年):皇居宮殿建設の際、現在の鉄橋に架け替え。橋桁が二重ではなくなる。
交通
脚注
- ↑ 船戸安之『勝海舟』291頁