マクラーレン・F1

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テンプレート:パワーウェイトレシオ マクラーレンF1McLaren F1 )は、マクラーレン・カーズ(現マクラーレン・オートモーティブ)が1991年に発表したスーパーカー

概要

マクラーレンの創始者であるブルース・マクラーレンの果たせなかった、「マクラーレンの名を冠したロードゴーイングカー」を具現化した車である。設計はブラバムやマクラーレンのF1マシンの設計者である、自動車デザイナーゴードン・マレーの手によるもので、マレーの嗜好や思想を充分に反映させたデザインとなっている。エクステリアデザインはピーター・スティーヴンスである。新車価格は当時日本円にして約1億円であったが、それでも売れば売るだけ赤字になるというほどコストが惜しみなく注ぎ込まれた車である。

F1登場以前の超高性能スポーツカーにはフェラーリ・F40ポルシェ・959などがあったがいずれもターボ過給されたエンジンであり、エンジンレスポンスが悪く、なおかつ快適性が劣っており日常的に乗れるような車ではなかった。そこへホンダがNSXを市販し、その快適性は「スポーツカーとしては運転しやすく快適すぎる」という批判があったものの、従来のスポーツカーとは一線を画していた。マレーは求める絶対性能は違いこそすれNSXをベンチマークとし、F1の開発中もNSXを所有し、快適性とスポーツカーとしての性能の指標としていた。マレーはNSXを評して「F1が10点満点ならば、NSXは7点、そのほかのスポーツカー(F40や959、ブガッティ・EB110)は2点か3点」とした。さらにマレーは「20世紀最後の工業製品として、10年、20年後にも見劣りすることのない究極の自動車」をテーマに掲げ、これを具現化させた。従来のいわゆるスーパーカーはともすればレトロな存在だったが、マクラーレン・F1はスーパースポーツの常識を塗り替え、スーパースポーツの基準を大きく引き上げた。

Mr.ビーンで知られるローワン・アトキンソンが所有していたが、カーボンモノコックボディのため追突事故の修理に新車のF1に匹敵する金額が必要となった。なお修復後も乗り続けたが、2011年8月4日に自損事故で大破させている。その後も大掛かりな修理を経て現在も所有している。フォーミュラ1ドライバーのアイルトン・セナも発売が決まると同時に第1号車の予約をしたが、1994年サンマリノGPで他界してしまったため、彼がその第1号車に乗ることはなかった。また、F1好きでも知られた元ザ・ビートルズのメンバーであるジョージ・ハリスンも生前所有していた。ハリスンの没後は親交があった元F1ドライバーのデイモン・ヒルが譲り受け、現在も大切に保管されている。ハリスンからのオーダーによって、エンジンカウルの内側とキャビン内に純金製のガネーシャの小さなレリーフが取り付けられていた。

日本においては、1990年代にタグ・ホイヤーの販売イベントで各地の時計店を巡回した。地方在住の者にはこのイベントで初めて実車を目にした者も多い。

機構・スタイル

ファイル:Orange McLaren F1 interior.jpg
中央の運転席と左右の助手席という特徴的な配置
ファイル:1996 McLaren F1 luggage.jpg
ボディサイドの荷物スペース

バタフライドアグループCカーを連想させるような戦闘的かつ空力を有効活用するスタイリングなど特徴は多岐に渡るが、この車の最大の特徴は、非凡な運動性を実現するべく、重量配分に関わるレイアウトを徹底的に煮詰めているところにある。

まず、ドライバーシートがセンターに置かれ、その左右に若干後退して助手席が配置される、市販車としては類を見ない独創的な3人乗りになっている。これは、運転手1人だけが乗車していることと仮定して、運転席を中央に配置することにより、左右どちらかに重量が偏るのを防ぐことが挙げられる。さらに左右のホイールハウスによるスペース上の干渉が避けられるため、ペダルの配列の自由度が向上するメリットもある。そういった配慮はシート配置だけではなく、エンジンなどの重量物はもちろんのこと、トランクルームでさえも、運動性能向上のためには望ましいホイールベースの内側に入れてしまう徹底ぶりである。ただし、スペアタイヤはスペースの都合上搭載できなかったようで、省略されている(そのために応急補修キットが搭載される)。またフロントバルクヘッドにステアリングギアボックスのケーシングを一体成形で設けているという点も特筆される。

ボディはF1マシン譲りのカーボンコンポジット材で成型された軽量モノコックボディで、40点以上のピースを接着剤で貼りつける構造を持ち、フロアにはアルミハニカムをカーボンファイバー材で挟み込んだ高剛性素材が使用されている。徹底的に金属素材の使用を排除していった結果、モノコックボディ単体で(開発時の目標が達成されているとするならば)180kg、エンジンなどを含めた総重量で1,140kgと、驚異的な軽さに仕上がっている。ちなみに、このカーボンファイバーの焼成に使用されたオートクレーブは、マクラーレン・カーズの本社から少し離れたギルフォードにある施設で製作されたが、元々この施設はジョン・バーナードが機材ごと施設を売却したフェラーリF1のコンポジットファクトリー「ギルフォード・テクニカル・オフィス (GTO) 」そのものである。

エンジンルーム内側は遮熱のために金箔(22金)が貼り付けられ、エギゾーストパイプおよびマフラーはインコネル製、その上ウィンドウウォシャー液タンクのフタまでもチタン合金の削り出しと、高価な素材が本当に惜しげもなく使用されている。金箔による遮熱という手法はレーシングカーでは割とよく行われており(ただし、金は重いので金箔といえども大量には使えない)、エギゾーストパイプも追突事故の際は衝撃吸収材として機能する配置にされるなど、実績のあるものを適材適所で妥協なく使用する手法を取りつつ、それらをロードユースにも適合させるという、極めて困難と思われる課題も非常に高いレベルで実現している。

ミッドシップにマウントされているエンジンBMWモータースポーツGmbh製で、元はBMW・8シリーズに同社が手を加えた「M8」に搭載されるはずであったが、結局生産されずにお蔵入りとなってしまったもの。S70/2型というコードがつけられたこのエンジンは、6.1L V型12気筒 DOHC 48バルブで、出力はリッター100bhpを超える627bhpを達成している。当時「世界で最も出力の高いクルマ」としてギネス・ワールド・レコーズに認定された。ロードカーとはいえども、エンジンの特性そのものはレーシングカーに近く、フライホイールをもたないエンジン本体の鋭いレスポンスもさることながら、カーボン製小径クラッチプレートを使用した多板式クラッチの慣性質量の低さがそれに寄与している。当初はホンダからV8もしくはV10エンジンの供給を望んでいたが、マレーの再三の要請にも自前のNSXですでに赤字を出していたホンダは応えず、BMWから供給してもらうこととなった。

エンジン本体にはトラス状の構造物が頑丈に溶接されており、これを車体側の上下計4か所のジョイントで剛結する構造となっている。これによってエンジンの脱着を楽にすることで整備時のサービス性向上を図っているほか、エンジンそのものを車体のストレスメンバーとして、シャシーと一体化することを実現している。この辺りにもマレーの革新性がうかがえる。

ラジエーターは車体前方に2分割して搭載され、ドアサイドに大きく刻まれた斜めのラインに沿って、フロントタイヤのホイールハウスの気流とともに排気、放熱される。また、マレーがブラバム時代に製作したF1マシンBT46B"ファンカー"と同じく、車体下面に流れ込んだ気流を吸い出すファンを採用している。さらにリアエンドのリップスポイラーが速度に感応してリフトアップするなどの空力デバイスを装備している[1]。しかし、後述するGTRにおいてはダウンフォースの不足が指摘されることとなる。

ギアボックスはワイズマン製Hパターンの6速シンクロメッシュ式トランスミッションを採用。縦置きではなく横置きとなっており、エンジンに組みつけられた状態でも非常にコンパクトであり、またリアサスペンションのアームもギアボックスに取り付けられ、サスペンションからの負荷を負う構造となっていて、この辺りもレーシングカーの常套手段を取り入れた設計となっている。車輌自体のコンパクト化を実現するため、シフトレバーとミッションをロッドでリンクすることが難しいため、ワイヤーリンケージによって連結され、作動する方式を採用している。

ブレーキシステムは前後ともブレンボ製4ポッド。ディスクは冷却性が向上されるドリルド・ベンチレーテッドディスクで、キャリパーは剛性の高いモノブロック式となっている。当初、F1マシンにも採用されているカーボンディスクブレーキも検討されていたようだが、結局ロードカーの実用面での問題を解決することができずに見送られた(後のGTRでは実現している)。

サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン式で、フロント側はインボードにマウントされたコイルスプリングダンパーをアルミ鋳造製のロッカーアームを介しロッドを押す、プッシュロッド式が採用されている(リア側は一般的なアウトボード式)。

車輌の重量バランスと、規定されていた重量を実現するため、車載工具がチタン合金である他、標準装備されているケンウッド製オーディオシステムが細かく重量が指定された特注品であるなど、重量に対するこだわりも特筆に価する。また「30秒で車内の空気が入れ替わる」といわれた高性能の空調機器を搭載するなど、日常での使用にも応える快適性を持たせている。これは後述するGTRでもドライバーから「車内が暑くない」といわれたことからもわかる通り、動力性能一辺倒になって忘れ去られがちになる「快適性」という自動車にとって大切な性能の一つをしっかり押さえていたゴードン・マレーの視点の鋭さを垣間見る点でもある。

ノーマルの状態で最高速テストを行い、371km/hの世界記録を達成したものの、これはあくまで参考記録であり、公式な記録ではないために非公認上の数値となっている。無論『ギネス世界記録』にも掲載されていない。

その後となる1998年3月、ドイツヴォルフスブルクにある、9kmの直線区間を有するフォルクスワーゲンのテストコース、エーラ・レッシェンにおいて、アンディ・ウォレスのドライブによってほぼノーマルの状態で最高速テストを行い、391.0km/hを公式に記録した[2]。この記録は最大出力発生回転より上で得られていたので、もし7速トランスミッションを搭載していたとしたら推定瞬間最高速度は400km/hを超えていたと思われる[3]

価格は当時としては超高額の「1億円のスーパースポーツカー」と言われた。この価格の中には、車載工具などのほか、マクラーレン・カーズ本社における購入者の体格、嗜好に合わせたシート合わせの代金などが含まれていた。フェラーリ・F40の市場での実勢価格も1億円程度だったことから、ロン・デニスは「よりすぐれたマクラーレン・F1はフェラーリより売れる」と単純に考えていたが、当時はスーパースポーツの主な市場であった中東の富豪や北米の富裕層にF1チームのマクラーレンの知名度が低く、また本職のレーサーでもなければ乗りこなせない性能や、非日常的なインテリアの影響もあり、販売数は伸びなかった。

中古車を取引する場合、直接マクラーレン・カーズと交渉して、購入希望者との交渉によって売買が成立するといわれる。また売却後はマクラーレン・カーズによって、大掛かりなオーバーホールを経て新車同様にリビルトされ、「アプルーブドカー」として新たなオーナーの元に届けられる。

レース活動

ファイル:McLaren F1 GTR.jpg
Mclaren F1 GTR Road version(1997年型)
ファイル:McLaren F1 LM.jpg
McLaren F1 XP-LM(2006年の英国モーターショー)

採算を度外視し妥協することなく作られたこの車は、レースにおいてもいくつもの好成績を残している。

レース活動を行うにあたっては、BPRシリーズ(後のFIA-GT選手権を経て現・FIA GTシリーズの母体)に参戦していた「ジェントルマンドライバー」と呼ばれるアマチュアドライバーたちの要望に応えるかたちで始まり、マクラーレン・F1-GTRを供給した。外観は最低限の空力部品を追加しただけでのように見えるが、中身の主要部品はレース用に再設計(レギュレーションに合わせ、エンジンの排気量も変更)された。ブレーキディスクもカーボンに変更されたが、温度管理等が難しく、カテゴリーによってはレギュレーションで禁止されたため、鋳鉄製ブレーキも準備された。

1995年ル・マン24時間レースでは、設計者のゴードン・マレーがクラッチやトランスミッションが24時間保つとは保証できないと懸念を隠さなかったが、決勝で雨が降り大荒れの展開となる中、J.J.レート/ヤニック・ダルマス/関谷正徳組が運転する国際開発UK[4]が総合優勝を果たした。しかし、ダウンフォース不足が露呈し、マウリツィオ・サンドロ・サーラは「ダウンフォースがほとんどないに等しい」と言い切っていた。

この総合優勝を記念して、エンジンのパワーアップ他大幅なチューニングを施し、空力パーツをGTRと同一とした限定車マクラーレン・F1-LMが5台のみ製造、販売された。ル・マンで優勝を果たした車輌は、サルト・サーキットに隣接するル・マン・ミュージアムにドライバー3人のヘルメットとともに展示された。現在はマクラーレン・カーズのアーカイブに保管されており、今でもその姿を見ることができる。

1996年にはエンジンの搭載位置を20mm下げて重心を下げるなどの小改良を施したが、この年登場したポルシェ・911 GT1に苦戦を強いられる。ル・マン24時間レースの結果は総合4位がやっとで、ル・マン制覇のみを目標として開発された純レーシングマシンのポルシェ・911 GT1には歯が立たなかった。

1997年、ポルシェ・911 GT1AMGメルセデス・CLK-GTRに対抗すべく、設計を一から作り直し、前後オーバーハングを伸ばし空力特性を向上させたマクラーレン・F1-GTR 1997で、FIA-GT選手権およびル・マン24時間レースに参戦。ル・マン24時間レースにて総合2位を獲得した。ホモロゲーション車輌として、「Road version」が3台製作されている。搭載エンジンがBMW製だったこともあり、BMWのワークス活動においても使用された。

日本国内では、1996年全日本GT選手権(現SUPER GT、GT500クラス)にチーム・ラーク・マクラーレン(後のチーム郷)が参戦し、総合優勝(ドライバーズタイトル、チームタイトルの二冠)を果たしている。しかし、あまりの強さゆえに車輌規定の在り方をめぐって日本製GTカーとの軋轢を起こすことになり、1997年より採用予定であった車輌規定を前倒しする形で「日本車重視のマクラーレン潰し」とも取られかねない性能調節が行われた。結果としてチーム・ラーク・マクラーレンはGTアソシエイションから抗議脱会してしまい[5]、チャンピオンになったにもかかわらず、GTオールスター戦にも呼ばれず年間表彰にも招待されないという禍根を残した。もっとも当時の全日本GTのレベルからすれば、マクラーレンの参加は「F3のレースにF1マシンが出走する」ようなもので、そもそも「場違いな存在」だった。たとえば問題のシーズン中のルール変更以前に、当初から600馬力以上あったエンジン出力は400馬力ほどまでデチューンされていたが、それでも圧倒的に速かった。また、バブル景気崩壊後に限られた予算でマシンを開発していた日本勢からは、大金で買ったマシンで参戦するスタイルも反感を買っていた。しかし流麗かつスタイリッシュなマシンは各地で高い人気を集めた。

1997年シーズン終了後は、ル・マンやイギリスGT選手権などに細々と出場していた他は売却、保管され、事実上レースの第一線から退くことになるが、全日本GT選手権では1999年までその命脈を保ち続けたほか、スポット参戦も含めれば2005年まで断続的に参戦が行われている。

生産車ベースのGTレースカーとして不動の位置を保ち、その一方でゴードン・マレーが頑なに守った「まずロードカーありきのGTレースカー」というジレンマの中で、結果としてGT1カテゴリーの開発の激化を招くなど、GTレーシングの意義を問う過渡期に活躍したマシンである。

車輌バリエーション

XP
先行試作車であり、車名の"XP"とは"eXperimental Prototype"(エクスペリメンタル・プロトタイプ)を意味する。全部で5台が製造され、各種のテストやパーツの比較検討に供された。1号車はサイドミラーがAピラーに取り付けられるなど、後に登場する市販車とは若干外観が異なっている。1台がナミビアでのテスト(高温での耐熱テスト)の最中にクラッシュして大破してしまう。
F1
1993年12月25日に1号車がロールアウト、市販された。マクラーレン・オートモーティブのWebサイトによると1993年から1998年の間に64台しか製造されていない。
GTR 第1世代 (1994〜1996)
マクラーレンF1のレース仕様として1994年に登場。当初競技車輌として使用することに否定的な反応を示していたゴードン・マレーに対し、ロン・デニスと個人的な交友があったGTCモータースポーツのオーナー兼ドライバーであるレイモンド・ベルムなどがこのマシンのレース車両としての資質を見抜き、交渉の末GTレース専用車として登場した。外観上の差異は市販車に対し、リアウイングの装着、専用のフロントスポイラーおよびバンパー、サイドスカートなどのエアロパーツの装着、比較的軽微なものとなっている。フロントスポイラー部分はチームによって2〜3種類の形態のバリエーションが存在する。エンジンは市販車の628psからリストリクターの装着により600ps程度に絞られている。
1996年にはウィークポイントであった重心の高い大排気量エンジンから来るハンドリングの悪さを緩和するために、エンジンの取り付け位置を20mm下げる改良を施し、重心を相対的にハンドリング性の向上を図っている。またル・マン24時間レースなどにおける夜間走行時の輝度向上と視界確保の向上を狙って、ヘッドライトが二つの盛り上がった透明なバルジの中に収められた大型のライトに変更された(通常のライトも継続して使用されている)。ライトポッド自体もノーマルと比べ前進しているため、左右および前方の照射角度が広がり、夜間走行時のドライバーの心理的負担の軽減にも寄与している。ライトの交換はフロントカウルごと交換を行う。このライトを採用したため、前年のル・マン24時間レースで使用していた補助ライトは廃されている。このほか、ワイパーのアームを細い物に交換するなど、さまざまな部位の軽量化が図られている。こうした細かい改良によってハンドリング向上に寄与している。
退役後に公道走行用に改造の上ナンバーを取得して、ロードカーに生まれ変わった車輌が存在している。前述したレイモンド・ベルムは1996年に鈴鹿1000kmで自らが乗ったガルフ・オイルカラーのGTRをロードカーにして、1997年のル・マン24時間に自らのドライブでサーキットに駆けつけている。この車輌のロードカーへのリビルトと転用改造はマクラーレンカーズで行われた。運転時には本人が「運転は快適で楽しいんだけど、ちょっとうるさいんだよ」と語るとおり、インカムを着用する必要がある。ピンクフロイドのドラマーであるニック・メイスンも、ロードカーにリビルトされたGTRを自身のカーコレクションの中に一台保有している。
GTR 第2世代 (1997)
ポルシェ・911 GT1の登場に危機感を募らせたマクラーレン・カーズは、翌1997年にほとんど共通部品を使用しない新設計と言っても良いほどのエヴォリューションモデルを投入することになる。マシン全長と全幅を拡大し、ボディ全体の空力を見直してダウンフォースを強化し、トランスミッションもノンシンクロ式の6速シーケンシャルシフトに改められている。またボディの大型化によって機器類の配置に余裕が出たため、ミッションの接続はワイヤーリンケージからロッドリンケージに改められている。屋根上のエンジン吸気用エアスクープは、屋根の流れに沿って気流を送るそれまでのものから、高いラム圧と吸気効率を得るためにシュノーケル形の物に変更された。後にフードをかぶせてより高い吸気効率を得る改良が各車輌に加えられている。エンジンの排気量はそれまでの6,064ccから、リストリクターの規制が従来より緩和される5,999ccに下げられているが、全体のパワー低下は見られない。リアウイングはコースによって翼端板が大きい物と小さい物などのバリエーションが存在する。前年度型のマシンに採用された大型ライトはこの1997年型にも採用されている。
しかし、あくまでもマクラーレンF1GTRを競技用車輌とはいえ「ロードカー」という枠組みに当てはめた上でのレーシングカーにしたい[6]ゴードン・マレーの意向に反するように、ロードカーが規定を満たす上での「言い訳」として作られたAMGメルセデス・CLK-GTRポルシェ・911 GT1などの台頭が著しく、徐々に苦戦を強いられる場面が多くなる。結局同年秋にBMWからのエンジン供給契約が満了したことを受けてロードカーの生産が打ち切られたこともあり、この年をもってマクラーレンF1GTRの開発は終了し表舞台から遠ざかることとなる。翌年からは、GT1カテゴリーが恐竜のような存在と成り果て、事実上のプロトタイプカテゴリーとなっていった。1998年のル・マン24時間レースは、その恐竜たちを相手に、開発の凍結された1997年型マシンで、総合4位を獲得しル・マンから去っている。そしてその後も全日本GT選手権において生きながらえて行くことになる。
F1-LM
1995年のル・マン24時間レースの総合優勝を記念して、5台のみ限定で生産されたロードカー。空力パーツはGTRそのままの形態となっており、さらにスライド式の小窓を設けた固定式窓など、通常のロードカーと比べてもかなりスパルタンな仕様に仕立てられている。エンジンにも更なるチューニングが施され、通常の628PSから648PSに強化され、トルクもに強大なものとなっている。車体のカラーリングはブルース・マクラーレンに敬意を表してオレンジ色のみとなっている。
GT
1997年のエヴォリューションモデルの登場に際し、欧州連合(EU)での公認を受けるレギュレーションを満たすために製造されたロードカー。合計3台のみ製造されたが、市販はされていない。外観は1997年型のGTRからリアウイングを省いた程度である。

脚注

  1. この機構は後にメルセデス・ベンツと共同開発するSLR、直系の後継機であるMP4-12Cにも搭載されている。
  2. McLaren F1 - World Record 391 km-h on board camera
  3. AUTO CAR JAPAN 2007/2 p.67
  4. 実質的マクラーレンのワークスチーム。車輌はマクラーレンカーズが所有していたGTRの開発車輌であった。
  5. 脱会後はピットの位置も端の方に追いやられていた。
  6. GTカーのみならずツーリングカーのレースにおいて、これは至極当然のことである。

関連項目

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外部リンク

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