IS-3

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:戦車 IS-3テンプレート:Lang-ruテンプレート:Lang-ukテンプレート:Lang-pl)とは、第二次世界大戦末期において、ソビエト連邦が開発した重戦車である。

日本語文献においてもポーランド語やウクライナ語、ドイツ語英語の表記に従ってJS-3と書かれることも少なくない。「IS/JS」とはヨシフ・スターリンのイニシャルであり、そのためスターリン3型重戦車とも呼ばれる。

概要

IS-2戦車が量産に入っていたころ、ニコライ・ドゥホフの設計チームにより新型重戦車の試作型・キーロヴェッツ1が計画され、1944年10月に完成した。正式採用されたこの戦車はIS-3と名づけられ、翌年からチェリヤビンスク工場で量産に入った。

大戦中のソ連戦車は傾斜装甲を多用していたが本車はそれをより徹底し、車高と砲塔の扁平さは当時としては極めて先鋭的であった。これはIS-2の前面装甲部分の欠点を解消した設計ではあるが、初期においては溶接の不良で振動(主砲の射撃時や路外地走行時等)により装甲が剥離するというトラブルが発生した。IS-3は重装甲と122mm砲を持つ重戦車であるにもかかわらず、45tとパンター戦車並みの重量しかなく、全長以外はそれ以下のサイズに抑えられていたが、これは内部容積を犠牲にした結果であり、主砲の発射速度などに悪い影響を与えた。

ベルリンにおける戦勝パレードで第2親衛戦車軍所属の52輌が披露された時、その先鋭的なシルエットと巨大な砲に他の連合軍首脳は度肝を抜かれ、これに対抗するためアメリカはM103ファイティングモンスター、イギリスはコンカラーといった重戦車を開発することとなるが、時代の変化で重戦車というカテゴリーの有効性が失われていき、全て退役していった。

本車は1951年までに2,311輌(約1,800輌という説もあり)が生産され、後に拡大発展型のIS-8改めT-10を生み、IS-3自体も1960年から雑具箱を兼ねる車体側面装甲の変更やエンジンをV-55に換装する等の改修を加え、IS-3Mとなった。

活躍

第二次世界大戦にこの戦車が間に合い、独ソ戦で実戦に参加したかどうかは過去論議されていたが、現在では部隊配備はされたもののトラブルの解決や訓練に時間をとられ、ベルリンへの輸送中に終戦を迎え、実戦参加は無かったと断言されている。また満州侵攻にも出動したが、戦闘を経験することなく終戦を迎えた。

第三次中東戦争ではエジプト軍に売却された約100輌のIS-3Mが戦闘に参加した。シェイク・ズワイドにおいてイスラエル国防軍第401機甲旅団所属のM48パットンA2戦車は、20~30輌のIS-3Mと戦闘に入ったが、その90mm砲弾は弾き返されてしまった。しかし未熟なエジプトの戦車兵は後部の補助燃料タンクを装着したままで、これに気付いたイスラエル側は曳光徹甲弾で狙撃し5、6輌を炎上(ディーゼル燃料は爆発し難いが、榴弾の爆発や曳光弾の熱では着火してしまう)させ、パニックに陥ったエジプト戦車兵は無傷のIS-3Mを放棄して離脱した。車体を隠蔽しての待ち伏せによる戦法でイスラエル軍を苦戦させたこともあったが、最終的に73輌が失われ、一部はイスラエル軍に捕獲装備され、エンジンをT-54の物に変更するなど改修を加えたが、部品供給の問題もあり最終的にはヨルダン川沿岸に車体を埋めトーチカ代わりとなった。

ソ連軍でのIS-3Mは1970年代まで装備車輌リストに含められており、後に北方領土で沿岸防衛用のトーチカ代わりとして長く使われ、現在も放棄され錆び付いた物が残されている。ソ連と前述のエジプト以外でのIS-3の運用は少なく、チェコスロバキアポーランドにそれぞれ1 - 2輌(実戦部隊配備無し)、北朝鮮に部隊編成が出来る程度の数が送られたのみである。それ以外の同盟国で使われたスターリン戦車はIS-3MではなくIS-2Mであり、またT-10、T-10Mはソ連軍以外では使われていない。

関連項目

ファイル:IS3.jpg
戦後改修型であるIS-3M

テンプレート:Sister

テンプレート:第二次世界大戦のソ連の装甲戦闘車両


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