複葉機
複葉機(ふくようき)とは、飛行機において、揚力を得るための主翼が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「三葉機」、4枚以上のものを「多葉機」と区別する事もある。
歴史的経緯
揚力は速度の2乗、密度、翼面積に比例するが、飛行機の発展当初においてはエンジンが非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。だが当時の翼は布張り木製で強度がなかった為、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらす事で、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。
しかし、複葉翼は上下の翼間において流れの干渉が起こるため単純に翼2枚分の揚力は発生しないうえ、上下の翼をつなぐのに使用されるワイヤーの抵抗が大きく(抗力係数が翼型の数倍~数十倍)、効率が悪かった。そのため飛行機の速度性能の向上や製造技術の向上に伴う翼の強度の向上とともに欠点が目立つようになり、1930年代後半には金属製の単葉機が一般的となる。
しかしながら、上下の翼の干渉は両翼を前後にずらすことにより、空気抵抗はワイヤーの本数を減らす事や、ワイヤーを廃し空気抵抗をできるだけ小さくした桁のみで主翼を支える事で、ある程度の解決はできた。一方で単葉機の側も初期の頃は洗練がなされず、必要な強度を確保するため主翼を厚くして空気抵抗を増して失敗した例もある。そのため1920年代から1930年代は、単葉機と複葉機が併用された時代であった。例えば1925年のシュナイダー・トロフィー・レースでは、複葉機のカーチス R3C-2が単葉機のマッキ M.33に対して勝利している。単葉機への移行が決定的になった頃に、あえて複葉機として設計され、そして単葉機に劣らない性能を示した零式水上観測機の例もある。
第二次世界大戦期にはほとんど単葉機への移行が完了したものの、日本、イギリス、イタリア、ソ連(初期のみ)では複葉機の使用例もある。特にイタリアは30年代において当時最速の時速709kmの単葉水上機を開発しており、この分野では先駆者であったにもかかわらず、複葉戦闘機であるCR.42を1942年まで生産し続けた(なお同機は、イタリア休戦後の1943年にはパルチザン掃討に使用するため、ドイツの命令により150機が生産された)。
現代ではその省スペース性が見直され、一部のアクロバット飛行用、農業用飛行機もしくはウルトラライトプレーンに残っている他、誘導抗力の低減や、ブーゼマン翼(後述)の生む衝撃波低減など、新しい利点が注目されている。
ブーゼマン複葉翼
1930年代にドイツの航空工学者アドルフ・ブーゼマンが提唱したブーゼマン複葉翼を戦後NASAなどが研究していた。これは二枚の翼に発生した衝撃波を干渉させ打ち消すもので、超音速機に発生する衝撃波の低減が期待されていたが、
- 迎角が変化すると干渉が崩れてしまう
- 超音速巡航状態以外では逆に既存の翼より抗力が大きい
- 翼端では干渉が崩れる
などの問題によって研究は打ち切られた。しかし近年、CFDを用いてこれらを解決しようと防衛省、東北大学などで研究が進められている[1]。
有名な複葉機
- 第一次世界大戦まで
- ライトフライヤー号:世界最初に飛行に成功した機体である。
- フォッカー Dr.I:(三葉機)撃墜王リヒトホーフェン男爵(レッドバロン)の乗機として有名。
- フォッカーD.VII:第一次世界大戦で連合国側に最も恐れられた機体。
- アルバトロス D.III:木製モノコックの胴体を採用。
- ゴータ G.IV:ロンドンを夜間爆撃したことで知られる。
- スパッド VII:水冷エンジン搭載のフランスの重戦闘機。
- ニューポール 11:複葉の下翼が短い一葉半方式を採用、格闘戦に強い。
- ソッピース キャメル:旋回性能が優れた格闘戦向きの機体。
- 第二次世界大戦まで
- 現代
- ピッツ・スペシャル:曲技用複葉機。
- グラマン アグキャット:1950年代に設計された農業用複葉機。
- PZL M-15:農業用複葉ジェット機。
- An-2:第二次世界大戦戦後に開発された複葉単発機。
- An-3:ターボプロップエンジンを搭載した複葉単発機。
三葉機
多葉機
(空気より重い)飛行機の研究の初期には、より多くの主翼を重ねる研究もなされていた。いくつか例を挙げる。