石川康長
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石川 康長(いしかわ やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。信濃松本藩の第2代藩主。別名を三長(みつなが)とも言う。
生涯
天文23年(1554年)、石川数正の長男として生まれる。天正13年(1585年)、父と共に徳川家康のもとを出奔し豊臣秀吉に仕えた。
文禄元年(1592年)、父の死去により家督を継いで第2代藩主となり[1]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分与した。
康長は父の代より続く居城の松本城の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった[1][注釈 1]。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている[2]。
慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、所領を安堵された。しかし慶長18年(1613年)、大久保長安と縁戚関係にあったことから大久保長安事件に連座し[3]、領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次とともに改易され、豊後佐伯に流罪に処された。
改易の理由は分量を超えた城普請が原因であったとする説や[3][注釈 2]、幕府の外様大名外しであったとする説などもある[3]。
寛永19年(1642年)12月11日、配所で死去した。享年89。
慶長19年(1614年)から始まった大坂の陣において弟の康勝と共に豊臣方として参加し、慶長20年(1615年)に戦死したとの説もある(しかし墓所は康長の配流先である大分県にある)。