阿武松緑之助
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阿武松 緑之助(おうのまつ みどりのすけ、1791年(寛政3年) - 1852年1月20日(嘉永4年12月29日))は、能登国鳳至郡七海村(現:石川県鳳珠郡能登町)出身の元大相撲力士。本名は佐々木姓までは多くの文献で一致しているが、名は「長吉」や「常吉」とする文献が存在するほか、名を記さずに佐々木姓のみ記述する文献があるため、不明である。
来歴
1791年に能登国で生まれる。実家は農家で馬子だったが、江戸・柳橋でコンニャク屋の下男をしているうちに力士を志し、武隈部屋へ入門した。四股名である「阿武松」は、萩の景勝地「阿武の松原[1][2]」に由来する。
稲妻雷五郎と競い合って文政から天保にかけての相撲人気を盛り上げ、1828年に吉田司家から横綱免許を授与された。これによって、小野川喜三郎以来約30年(歴代の横綱経験者を全て含めれば、小野川の没後約22年)に渡った横綱不在を解消した。
現在、「阿武松」の名は日本相撲協会の年寄名跡の一つとされ、一種の止め名となっている。
人物
温厚で義理が堅く、情誼に篤くて長者の風格を具えていた。そのため、相撲は良く言えば慎重、悪く言えば消極的な取り口で作戦的な立合いが多く、「待った、待ったと、阿武松でもあるめぇし…」と江戸の流行言葉にもされた。
色白で力が籠もると満身に赤を注いだ様になり、その姿は錦絵と称された。
エピソード
- 落語や講談では、阿武松があまりの大食漢の割に出世が遅いので、武隈部屋を破門となって故郷にも帰れないために自害を決意。「この世の名残に」と入った飯屋でその食いっぷりを主人から見込まれて、錣山部屋に入門した…ということになっているがこれは創作で、師匠の代変わりで所属が粂川から雷と転々としているほか、抱え藩も盛岡藩から萩藩へ変わったことが誤解されて広まったものである。
- 長州で博多織の帯の一種が「小柳帯」と呼ばれたほど、婦人に人気があった。小柳とは、阿武松が「阿武松」を名乗る前の四股名である。
主な成績
- 幕内通算成績:142勝31敗24分8預1無37休(26場所) 勝率.821
- 優勝相当成績:5回
脚注
- ↑ 萩では『あぶの松原』と読む。この阿武の松原は萩にある現在の菊ヶ浜のことで、萩市大井にも「阿武の松原」が存在するが、こちらは「おうのまつばら」と呼ばれている。
- ↑ 萩市立大井小学校の校歌にも「阿武(おう)の砂浜…」という歌詞が存在するが、大井地区が萩よりも古くから栄えた土地だと考えると、四股名を「おうのまつ」と呼ぶことは自然なものと考える。