外が浜
外が浜(そとがはま)は、青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。
青森市油川から外ヶ浜町三厩までを指し[1]、現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。外ヶ浜、外浜とも表し、外の浜ともいう。
沿革
古くはさらに広い範囲を指して、西は津軽半島の日本海沿岸を含むとする説や東は下北半島の尻屋崎までとする説がある[2]。
地名の由来は、それまで続いていた陸地が尽きる場所、国土の終端を意味する言葉である「率土の浜(そっとのひん)」と考えられている。
平安時代には、「喜界が嶋(鬼界ヶ島)と外が浜」は国の辺境を指す代名詞であり、穢れの思想が強くなった中世においては日本と相容れない鬼(暗に中央に同化しない蝦夷(アイヌ)達を蔑視して指した)の住まう地として解釈されることもあった。
また、歌枕の地として知られ、西行や藤原定家など多くの歌に詠まれた。
- 「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
- 「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)
中世になって国郡制が本州北端にまで及んだ段階で、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠された地域は、津軽鼻和郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡および津軽山辺郡だけであって、これらの地域には津軽半島北部は含まれていなく、外浜、西浜という特殊な地域に編成され、むしろ津軽の先に広がる渡島(わたりのしま)のうちと考えられる[3]。
鎌倉時代には北条氏の得宗領であり津軽生え抜きの領主から地頭代官に抜擢された津軽安藤氏が支配した。鎌倉期においては夷島(えぞがしま)流刑は、いったん京都の検非違使庁に逮捕された強盗・海賊を関東に渡し、幕府の手で夷島(現 北海道)に流すという流刑であるが、その手前の外浜も中世の日本国の東の境界と意識され、流刑の対象地であった。
戦国時代には蠣崎氏、北畠氏、南部氏に三分され、天正13年(1585年)には津軽氏領となった。
江戸時代を通じて弘前藩領に属し、藩の行政単位として北部に「外浜上磯遣」が、南部に「外浜下磯遣」が置かれた。北部の津軽海峡に面した地域には寛文9年(1669年)の頃、推定で約200人のアイヌ民族が住んでいたが、宝暦6年(1756年藩士乳井貢らによる)と文化6年(1809年)の2度にわたって和人として人別帳に載せる弘前藩の同化政策によって消滅した。
江戸時代には、民俗学者菅江真澄によって、選れた旅行記であり、貴重な民俗資料でもある「外が浜づたい」「外が浜風」「外浜見聞」(平凡社ライブラリー『菅江真澄遊覧記』1 - 3所収)が出された。
2004年11月、東津軽郡蟹田町、平舘村、三厩村の合併後の町名が「外ヶ浜町」に決定した。
脚注
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite web 第三章 津軽氏の統一以前 第一節 外ヶ浜の地名
- ↑ 浪岡町史 第一巻 p486-487
参考文献
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- 伊藤喜良『日本中世の王権と権威』(思文閣出版、1993年) ISBN 4784207813