冊封国
冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。朝貢国、藩属国、服属国、附庸国などとも言う。
概要
古来、中国王朝はその国力と中華思想を背景に近隣諸国との外交関係樹立においては臣下の礼を求め、見返りに交易や対外的な権威を認めた。これが中国王朝を中心とした東アジアにおける中華秩序、冊封体制である。実際に中国王朝に対し冊封国がどのような義務を負っていたかは一律ではなく、個別の事情により異なるが、一般には形式的なものであり、西洋における植民地のように内政や外交に干渉されるものではなかった。例えば、越南は清朝に従属しつつ自らも付庸国を持ち、対外的に宗主国としての地位を得ていた。琉球は清朝に属しながらも、日本の薩摩藩の冊封国であるなどした。なお、冊封国間にも序列があり、中国王朝から下賜される印綬や冊封使の品階などで区別された。たとえば、奴国(古代日本の国)は後漢から金印紫綬(漢委奴国王印)を、倭の卑弥呼は魏から金印紫綬(親魏倭王印)を、大月氏国も魏から金印紫綬(親魏大月氏王印)を受けており、琉球は明から鍍金銀印(琉球国王之印)を受けている。
朝鮮では紀元前3世紀頃、前漢初期に衛氏朝鮮が冊封されて以来、1895年に日清戦争で日本が清を破り、下関条約によって朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して中国の冊封国であった。高麗では国王が亡くなると、中国(宋)から冊封使が来て承認が得られるまで「権知国事」というつなぎの称号まであった。琉球など他の冊封国では国王が亡くなれば新たな国王がすぐに継ぎ、中国からの「事後承認」を得る形であったが、朝鮮だけは「事前承認」を得る形を取っており、「中国の許し」を重視していたといわれる[1]。高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められた。明より王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、洪武帝が「国号はどう改めるのか、すみやかに知らせよ」といってきたので、高麗のほうでは「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備して洪武帝に選んでもらった。和寧は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王国の名前である「朝鮮」を選んだ、そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより朝鮮を国号とした。和寧と言うのは李成桂の出身地の名であり、現在では国号の本命ではなかったとの意見が多い。清代には、黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢した記録や[2][3]、閔妃が自身の子(純宗)を王世子(世継ぎ)とさせるため、側近を清へ派遣して自身の子を嫡子として承認(冊封)してもらっていた記録が残っている[4]。
このような関係は、国家主権の平等性を基盤とする西洋の国際関係の影響を受けて崩壊していった。清朝は冊封国との関係を国際法に基づく形で再編を試みたが失敗に終わった[5][6]。
関連項目
参考文献
- ↑ 井沢元彦『やっかいな隣人 韓国の正体』
- ↑ 『仁祖実録』34卷 15年 正月 28日 (戊辰)
崇德二年正月二十八日。歲幣以黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。
同、3月 - ↑ 仁祖 46卷, 23年(1645 乙酉 / (順治) 2年) 閏6月 5日(乙酉)
○淸人減歲幣細麻布一百匹、諸色紬七百匹、諸色木綿布四千一百匹、蘇木二百斤、茶一千包、佩刀二十把。 - ↑ 『韓国 堕落の2000年史』 崔基鎬
- ↑ テンプレート:Cite journal
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