川田龍平
テンプレート:日本の国会議員 川田 龍平(かわだ りゅうへい、1976年1月12日 - )は、日本の政治家。結いの党所属の参議院議員(2期)。東京都出身。
東京HIV訴訟(薬害エイズ事件)原告、川田龍平と人権アクティビストの会代表。龍平学校-PEEK主宰。
略歴
- 1976年1月12日 - 東京都小平市に生まれる。
- 1976年7月 - 遺伝性疾患である血友病の診断を受ける。クリオ[1]製剤使用開始。乳児期に3度の脳内出血も発症するが、同薬により救命された。
- 1979年8月 - 3歳。非加熱輸入血液製剤使用開始。
- 1983年9月 - 家族療法開始(母が注射)。
- 1985年8月 - 自己注射開始(自分で製剤を注射)。
- 1986年1月 - 母が医師からHIV感染を告知される。
- 1986年12月 - 母からHIV感染を告知される。
- 1987年7月 - 発症予防目的でインターフェロン治療開始。
- 1992年9月 - 裁判に参加することを決意。
- 1993年9月 - 初めて裁判を傍聴。原告団に加わる。
- 1995年3月 - 実名公表。
- 1995年4月 - 東京経済大学入学。
- 1996年1月 - 成人式を迎える。
- 1996年3月 - 東京HIV訴訟和解成立(実質原告勝訴)
- 1997年 - 川田龍平と人権アクティビストの会設立
- 1998年9月 - 大学を休学し、ドイツ・ケルンに留学( - 2000年)
- 2000年9月 - 母・川田悦子の衆議院議員立候補に伴い帰国
- 2000年10月 - 母の衆議院議員当選に伴い帰国。秘書として仕事を手伝う( - 2003年11月)
- 2003年3月 - 東京経済大学卒業。
- 2003年4月 - 松本大学非常勤講師
- 2007年2月 - 世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersの1人に選出された。
- 2007年1月12日 - 31歳の誕生日に国政への挑戦を決意
- 2007年7月29日 - 第21回参議院議員通常選挙に東京選挙区から無所属で出馬、683,629票を獲得して当選。
- 2008年2月 - ジャーナリストの堤未果と結婚。
- 2009年12月 - みんなの党へ入党。党副幹事長、政調会長代理に。
- 2011年5月 - 国連列国議会連盟(IPU)のアドバイザー委員に就任。
- 2013年2月 - 子供と妊婦を放射能から守る「子ども・被災者支援法」を発議。同法成立後、子ども・被災者支援議連を設立し事務局長に就任。同年、薬害再発防止議連も設立し、事務局長に就任。
- 2013年7月21日 - 第23回参議院議員通常選挙にみんなの党全国比例区から出馬。党内比例区では最多得票の117,389票を獲得して再選。
- 2013年12月9日 - 「特定秘密保護法」に反対し、江田憲司らとともに離党。
- 2013年12月 - 結いの党に入党。現在政策調査会長代行、国対委員長(参)代理、ネットワーク委員長代理、政治改革本部長、選挙対策委員長、都連会長を兼務。
人物
1976年、東京都小平市生まれ(名前は平和、平等の「平」に辰年生まれなので「龍」をつけて母が「龍平」とした)。血液型はB型。東京都立小平高等学校、東京経済大学卒業。
生後6ヶ月、遺伝性疾患である血友病との診断を受ける。同病の治療に用いられた非加熱輸入血液製剤によりHIV(ヒト免疫不全ウィルス)に感染、その事実は10歳当時に母親から知らされた。1993年、東京HIV訴訟の原告(薬害エイズ事件を参照)のひとりとなる。1995年、19歳の時に実名を公表し、その裁判の実態が数多くのメディアで取り上げられ、世間の注目を集める。多くの支援により、日本の薬害裁判史上初の刑事裁判となった。1996年、訴訟は和解で終決したものの、その後も人権アクティビストの会などを立ち上げ薬害と人権問題に取り組み、国と大企業の癒着体質を追及し続けていた。
大学在籍中にドイツへ語学留学。2003年4月から松本大学非常勤講師を勤めることになった(担当科目は「生命倫理」「社会活動」「ユニバーサルデザインと地域」)。
2007年、参議院選にて東京選挙区から完全無所属で出馬し当選。環境委員会に所属。
2008年、世界経済フォーラムが選ぶ「Young Global Leaders」に選ばれる。
2011年、列国議員連盟の顧問機関である IPU (International Politician Union) のアドバイザーに就任。
血友病の治療経過中にC型肝炎ウィルスにも感染したが治療を経て治癒。2007年11月現在、HIV感染に伴うAIDS(エイズ)は未検出。
家族
参議院選挙
2007年7月の参議院選挙に東京都選挙区より無所属で立候補。自身が運営委員を務めていた「みどりのテーブル」など多数の団体が協力した。 立候補表明の会見では、新党日本の田中康夫代表から出馬要請があり、「将来的には田中さんと一緒にやりたい」と述べるなど同党との協力を示唆した。参議院選挙の際には、多くのボランティアが参加した。公示日の7月12日には約1000人のボランティアが都内約14,000箇所の掲示板のポスター貼りを手伝ったほか、7月22日の新宿での集会では支援団体やボランティア支援者を中心に約800人以上を、7月28日(選挙戦最終日)の渋谷での集会には約1000人以上を集め、著名人らも応援に駆けつけた[2]。683,629票を得て初当選。参議院環境委員会に所属したのち、現在は厚生労働委員会に所属。
第21回参議院議員通常選挙における候補者及び結果については、東京都選挙区#選挙結果を参照のこと。
国会議員活動
- 2007年8月2日 - 厚生労働省前で薬害肝炎全国弁護団・原告団の抗議行動に薬害肝炎被害者の1人として参加。
- 2008年5月 - みどりのテーブル運営委員を辞任し、退会。
- 2008年6月 - 参議院本会議において有害サイト対策法案に対し、青少年にとって必要なサイトにまで規制がかかることへの懸念などから反対票を投じる。
- 2008年12月 - 参議院本会議において国籍法改正案に対し、重要法案に対する粗雑な立法過程に疑問があるとの理由で、同様の問題提起をした田中康夫らと共に反対票を投じる。
- 2009年7月 -「臓器移植法改正」について、子供や精神障害者の権利を含めた野党側からの対案E案を本会議で発表する。
- 2009年7月 -「わが国固有の領土である北方領土の早期返還を実現するため、最大限の努力をする」と明記した改正北方領土問題解決促進特別措置法案に賛成投票(全会一致)。
- 2009年8月 - 静岡県駿河湾地震で緊急停止した浜岡原発4,5号炉の被害を調査するために、中電浜岡原発に国政調査権を使って原発敷地内原発内部を検証。その後記者会見で実態を報告する。
- 2009年12月 - みんなの党に入党。厚生労働委員会に所属。
- 2012年7月 - 放射線被害から子供と被災者を守る責務を国に課す「子ども・被災者支援法」を発案。その後他党の協力を得て衆議院で法案可決。
- 2013年1月 - 「子ども・被災者支援法議連」を設立。事務局長に就任。
- 2013年12月 - 「特定秘密保護法案」に反対し造反。本会議で反対票を投じみんなの党を離党。
- 2013年12月 - 江田憲司らと共にみんなの党を離党した議員達が立ち上げた「結いの党」に入党。
- 2013年12月 - 現在「結いの党」で政調会長代理・選挙対策委員長・政治制度改革委員長を務める。
- 現在は厚生労働委員会に所属。薬害、医療、環境分野に力を注ぎ、医療の専門家を呼んだ公開勉強会などを行っている。また、無所属時代から児童ポルノ法改正案に対して慎重な立場を示しており、創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志の紹介議員としても名を連ねている[3]。
政策
- 子どもと妊婦を放射能から守る「子ども・被災者支援法」発議者。同法は2012年に成立。
- 特定秘密保護法案に反対。2013年12月の参議院本会議における修正案採決では棄権の党方針に反し、寺田典城・真山勇一とともに本会議に出席した上で反対票を投じた。
著書
- 単著
- 『龍平の現在(いま)』(三省堂、1996年)
- 『Ryuhei 龍平―僕は生きたい』(桐原書店、1996年)
- 『龍平への手紙―そして龍平から』(草土文化、1997年)
- 『エイズ教育のこれから』(日本標準、2006年、ISBN 4-8208-0275-5)
- 『川田龍平いのちを語る』(写真・志葉玲、明石書店、2007年)
- 『日本に生きるということ〜薬害エイズ被害者が光を見つけるまで〜』(講談社、2007年)
- 『誰も書かなかった国会議員の話』(PHP新書、2009年)
- 『医療格差』(角川SSC新書、2011年)
- 『この国は何故被害者を守らないのか」(PHP新書,2013年)
- 共著
- 『ぼくらが語りあった7日間』(TOSHIとの共著 七賢出版、1996年)