「イスラム・カリモフ」の版間の差分
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イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ Islom Abdug‘aniyevich Karimov | |||
ファイル:Islam karimov.jpg |
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任期 | 1991年12月29日 – | ||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:SSR1923、 テンプレート:UZSSRサマルカンド | ||
政党 | (ウズベキスタン共産党→) ウズベキスタン自由民主党
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イスラム・アブドゥガニエヴィッチ・カリモフ(テンプレート:Lang-uz、テンプレート:Lang-en、1938年1月30日 - )はウズベキスタンの大統領、ウズベキスタン自由民主党所属。
経歴
1938年1月30日、サマルカンドに生まれる。公式にはウズベク人だが、タジク人ではないかという噂もあるテンプレート:要出典。
1960年、タシュセリマシュ工場で働く。1961年から1966年まで、V.P.チカロフ名称タシケント航空生産公団の技師。1964年、ウズベク共産党に入党。1966年から1983年まで、共和国ゴスプランの主任専門官、議長補佐官、課長、局長、副議長、第一副議長。
1983年からウズベク共和国の財務相、1986年から副首相兼ゴスプラン議長を歴任。1986年カシュカダリヤ州の共産党第一書記、1989年6月からウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。1990年から1991年まで、ソ連共産党中央委員会委員、政治局員。第11期ソ連最高会議代議員。
1990年3月24日、ウズベク・ソビエト社会主義共和国大統領。ソ連崩壊後の1991年12月29日、ウズベキスタン共和国大統領選で当選。1995年3月26日、国民投票の結果、任期を2000年まで延長。1996年、シベリア抑留を受けた日本人捕虜たちが首都タシュケントに建造したナヴォイ劇場に、その功績を称えるプレートを掲げた。
2000年1月9日に3選。
2005年5月13日、ウズベキスタン東部のアンディジャンでの反政府デモを国家保安庁の力で抑えた(アンディジャン事件)。死亡者数は公式には170名程度、非公式情報で500名程度と言われる。
1994年5月と2002年7月と2011年2月に来日している。
米軍が駐留していたが、市民運動が革命に繋がらずに失敗、その結果アメリカはカリモフの怒りを買い、(アフガン作戦が一段落したこともあるが)同国から米軍を撤収させることとなった。
2007年から2012年まで毎年8%以上のGDP成長率を達成するなど、経済専門家らしく経済運営において優れた面を見せている[1]。
人物
サマルカンド出身。妻帯、2女(ローラ、グリナラ)と3人の孫を有する。妻のタチヤーナは、経済学者で、共和国科学アカデミー経済研究所科学職員である。
中央アジア工科大学(1960年、機械技師専攻)、タシケント人民経済大学(1967年、経済学専攻)を卒業。経済科学準博士。ウズベキスタン科学アカデミー会員。
ウズベキストン・カフラマニ(ウズベキスタン英雄)の称号とオルティン・ユルドゥズ(金星)勲章を有する。
読書とテニスが趣味。
脚注
関連項目
外部リンク
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