岡田啓介

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岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日慶応4年1月21日[1]) - 1952年昭和27年)10月17日)は、日本軍人政治家階級海軍大将位階正二位勲等勲一等功級功三級

海軍大臣(第1418代)、内閣総理大臣第31代)、拓務大臣第7代)、逓信大臣第37代)などを歴任した。

生涯

海軍時代

1868年福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。

1889年海兵(第15期)を卒業。同期には小栗孝三郎竹下勇財部彪広瀬武夫らがいた。日清戦争に「浪速」分隊長として豊島沖海戦黄海海戦日露戦争では「春日」副長として日本海海戦第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに参戦した。

1923年海軍次官1924年連合艦隊司令長官1927年海軍大臣となり、1932年に再び海軍大臣に就任。その間軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。

首相就任

ファイル:Okada family inaugural celebration.jpg
1934年(昭和9年)7月13日、内閣総理大臣就任を祝う松尾伝蔵(右)ら家族

1934年、元老・西園寺公望の推奏により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、拓務大臣逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織するが、立憲政友会は入閣した高橋是清床次竹二郎などを除名[2]し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃されることになった。

岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹の夫・松尾伝蔵大佐と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。

岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。

粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「狸」とあだ名された。吉田茂は岡田を「国を想う大狸」と評している。

1936年1月21日に野党の立憲政友会による内閣不信任案の提出が行われ、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた第19回衆議院議員総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は二・二六事件で襲撃を受ける。

二・二六事件

ファイル:Keisuke Okada extra.jpg
二・二六事件について岡田の生存などを報道する新聞

二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。岡田は女中部屋の押入に隠れ、難を免れた。身代わりに首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が殺害された。岡田と松尾は血のつながりはなかったが、額から下の顔つきが似ていた。また、反乱軍の襲撃に対し、松尾自身が「いかにも私が岡田です」と応えたという証言もある。そのため反乱軍も、首相の殺害に成功したと誤認したとみられ、一時的に岡田首相死亡説が流れた。岡田の生存を察知した親戚は警視庁と提携し、反乱兵士の監視の下、弔問客の首相官邸入邸が許可された際、多人数の弔問客団の出入りに紛れる作戦をたて、これが成功し岡田は脱出し難を逃れた。

二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、昭和天皇に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年3月9日、岡田内閣は総辞職した。

終戦工作

その後岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。1940年以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。

開戦後の岡田は軍令部作戦課員の長男・貞外茂大蔵省総務局長で女婿の迫水久常参謀本部作戦課員の瀬島龍三と連絡を保ち他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。1943年の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻礼次郎近衛文麿米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。

東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は東條の腰巾着として不評だった海相・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で1944年12月26日には息子の貞外茂がマニラの戦いで戦死している。

1945年2月、天皇は重臣を2人ずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣牧野伸顕の意見が最も穏当だったとの中で回想している。

小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田はポツダム宣言受諾決定の御前会議の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。

戦後、極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田、米内、若槻、宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、四人をパーティーに招待して歓待している。1952年4月28日、日本国との平和条約(通称、サンフランシスコ平和条約)が発効しGHQによる占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日、自身の85年の生涯に幕を閉じた。

人物

  • 岡田には軍人らしい英雄譚が皆無であり、「岡田啓介伝」にも軍人の伝記にふさわしい豪快なエピソードが無く、編者の苦労が感じられる。しかしながら、そのことは岡田が通常の軍人とは異なり、豪傑を気取ったりすることのない常識人であったことをうかがわせる。また戦後、二・二六事件を巡る座談会に出席して、自分を襲撃した青年将校たちの心情を称える発言をおこなっている。
  • 参戦した青島の戦いでは、高千穂を撃沈されるなどの被害があった。岡田は後に沈没場所に赴き、戦死者の追悼法要を行っている。
  • 私腹を肥やすようなことは全く無く、生涯を清貧で通した人物であった。総理大臣就任の日に組閣費用が底を尽いてしまい、官邸に集う記者たちに振舞う酒が買えず「これで君たちの好きな酒を冷やしてくれ」と氷だけを配ったというエピソードがある。また、岡田が就任時に着用したシルクハットも借り物で、服もほとんど所有していないほどの貧乏だった。
  • 清貧であったが無類の酒好きで有名だった。自宅を訪問する客にはいつも金が許す限り、酒のもてなしが出されたという。

人脈

二・二六事件では、救出にあたった首相秘書官の迫水久常は娘婿で、終戦時には、鈴木貫太郎内閣書記官長を務め、後に参議院議員経済企画庁長官、郵政大臣を歴任した。回想記『機関銃下の首相官邸』(新版.ちくま学芸文庫、2011年2月)を出している。二・二六事件により刑死した丹生誠忠(事件当時は歩兵中尉)は、迫水の従弟であり、松尾伝蔵の長男・新一は二・二六事件の前年まで事件に加わった麻布第三連隊の中隊長であった(のち大佐。妻は迫水の妹)。高橋是清蔵相は、かつて共立学校の英語教員を務めており、岡田の恩師でもあった。

年譜

栄典

著作

  • 『岡田啓介回顧録』(岡田貞寛編、毎日新聞社、1950年12月25日 新版1977年)
    • (中公文庫、1987年、2001年改版) ISBN 4122038995

伝記

  • 豊田穣『最後の重臣 岡田啓介 終戦和平に尽瘁した影の仕掛人の生涯』(光人社、1994年) ISBN 4769806744
  • 仙石進『巨木は揺れた 岡田啓介の生涯』(近代文芸社、1994年) ISBN 4773332557
  • 上坂紀夫『宰相岡田啓介の生涯 2・26事件から終戦工作』(東京新聞出版局、2001年) ISBN 4808307308
  • 岡田貞寛『父と私の二・二六事件 昭和史最大のクーデターの真相』(講談社、のち光人社NF文庫)

脚注

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外部リンク

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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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第31代:1934年 - 1936年 |style="width:30%"|次代:
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鈴木貫太郎

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  1. 当時の時刻では1月20日深夜。旧暦では、夜明けを以て1日の始まりとしたため。
  2. 但し、高橋に就いては総裁経験者でもあったことから、党内の混乱を避けるため「離別」としている。