前野長康

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前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。

名称について

本名は坪内 光景(前野長康は通称であり、長泰とも書くが正式氏名は坪内光景、祖先の尾張富樫氏祖・富樫長泰にあやかり称す)。公的文書には本人は坪内光景・坪内長泰・富樫長泰と署名し、前野氏の養子になると、良岑長泰と署名している。名前は富樫氏の通字「泰」を使用した「長泰」が正しい。

通称は将右衛門。元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿であり、別名を坪内長康とも言われているが、その出自は『武功夜話』に依拠するところが多い。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。

なお、松倉城は戦国時代は尾張国葉栗郡にあったが、安土桃山時代木曽川の洪水の後の境界変更により、美濃国羽栗郡に変わる。美濃松倉城は正確といえない。

生涯

羽柴秀吉織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城築城に協力したといわれている。

信長没後、秀吉が天下人に上る過程の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い[1]、天正13年(1585年)の四国攻めに参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。

豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されている。

豊臣秀次付の家老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられた。享年68。

武功夜話

昭和62年(1987年)に新人物往来社から刊行された『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記であり、従来の学説を根本的に覆す歴史的にみても非常に貴重な史料と一時は注目された。しかし、使用されている語彙の一部が現代人に容易にわかるものがあり、五宗記部分の信憑性は立証されていない。

関連作品

書籍
演じた人物

脚注

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関連項目

  • 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)