魁傑將晃

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魁傑 將晃(かいけつ まさてる、1948年2月16日 - 2014年5月18日)は、花籠部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は西森輝門(にしもり てるゆき)。得意手は突っ張り、左四つ、寄り。身長188cm、体重128kg。黒いダイヤ怪傑黒頭巾の異名がある。血液型はAB型。引退後は年寄・放駒として放駒部屋の師匠となり、日本相撲協会第11代理事長(在任期間:2010年8月-2012年1月)を務めた。

日本大学文理学部中退。

来歴

入門から大関昇進まで

山口県岩国市に生まれ、小学校3年生まで岩国市で過ごし、その後は日本大学文理学部に進学するまで下関市で過ごした。下関市立日新中学校時代に柔道を始め、山口県立下関中央工業高等学校では柔道部の主将になった。講道館で行なわれた紅白試合で6人抜きを達成して講道館3段と銀盃が与えられるなどの実績を挙げ、特待生として日大に進学した。将来の五輪代表と目された一方その素質を見た後援者の薦めで、花籠親方(前3・大ノ海)がスカウトに動き、1年生の夏休み前に本人を部屋に呼び出し、「相撲部屋に入門する時は、花籠部屋以外には入りません。」なる誓約書を書かせた。本人は相撲取りになる気など更々無く、ならないならば花籠部屋に入る事も無いという気持ちで書いたが、この誓約書で花籠親方が両親を口説き落とし、青森県警の稽古のアルバイトから帰った本人を相撲取りになる様説得した結果、嫌々ながら相撲取りになる事を受け入れ、日大を1年で中退して花籠部屋[1][2]に入門し、1966年(昭和41年)9月場所で初土俵を踏んだ。

初めて番付に載った11月場所では、序ノ口を7戦全勝で優勝し、翌1967年(昭和42年)1月場所では、序二段で6勝1敗の好成績で、3月場所には三段目に上がった。しかしどうしても相撲に馴染めない為、その年の8月末に部屋を脱走して従兄弟の家に隠れたものの、すぐに追っ手に発見され、部屋に連れ戻された。今度こそ相撲取りを辞める決心を固め、親方に「辞めさせてください」と挨拶したが、「大勢の反対を押し切って相撲取りになったのに、1年で辞めるなら、その人たちに「もう辞めました」と挨拶して来い」と言われ、今更柔道界に戻ることも出来ないと諦め、部屋に残る事にした。三段目でも7戦全勝を記録し、1968年(昭和43年)3月場所で幕下に昇進したが、そこから少し伸び悩み、十両昇進は1970年(昭和45年)1月場所まで11場所を要した。その場所では、場所の直前に風邪を引いた事もあって4勝11敗と大きく負け越し、2場所幕下に下がって再び十両に返り咲いた。またこの年、花籠部屋に輪島が入門してきた。

当初は本名の「西森」(番付では森は木冠に冫人で書かれた)を名乗っていたが、十両に昇進すると「花錦」という四股名に改名。所属する花籠部屋と、故郷岩国の錦帯橋から1文字ずつ取り名付けられた。しかし、本人は花錦は自分には合わないとして嫌ったため、短期間で改名することになり、女将さんによって「魁傑」と命名される。実際には、本人の昼寝中に新しい四股名を女将から複数提示され、寝ぼけながらも別の候補を選んだが、昼寝から覚めると魁傑に決まっていたという[3]。最初は戸惑ったものの、これが昔中国で活躍した武将の名で、勝負師に相応しい四股名であることを知って大いに気に入ったと言う。

1971年(昭和46年)9月場所に新入幕、この場所は7勝8敗と負け越すが幕内にとどまり、11月場所は千秋楽まで8勝6敗と勝ち越していた。千秋楽の日、病床の父親から珍しく応援の電話が入り、電話を切って10分後に母親から「お父さんが死んだ。」との電話を受け、気持ちの整理が付かないまま土俵に上がったものの、黒姫山の強烈なぶちかましに突き飛ばされた。すぐに郷里に戻り、葬儀を行ったが、その時葬儀場に並んだ山口県知事や岩国市長、後援会長や相撲協会などからの花輪が並ぶ盛大な葬式を出せたのを見て、初めて「父親に薦められて相撲取りになったからこそ、これだけ盛大な葬式を出して恩返しする事が出来た。相撲取りになって良かった。」と感じ、以後は相撲に熱が入るようになった。

続く1972年(昭和47年)1月場所は7勝8敗に終わったが、3月場所は絶好調で、横綱北の富士とこの場所大関獲りとなる関脇長谷川らを倒して12勝3敗、長谷川との優勝決定戦では作戦にはまって負けて初優勝はお預けとなった。この頃から輪島、貴ノ花らと並んで「阿佐ヶ谷トリオ」として注目され、特に魁傑は、そのまじめな性格と朴訥とした優しいお兄さん的な顔立ちが女学生に受けて絶大な人気を博した。

1972年5月場所は新三役となる小結に昇進して11勝を挙げ、輪島・貴ノ花・三重ノ海らと共に次代を担う大関候補として「貴輪三魁」と称された。また、この場所のエピソードとして、9日目に大関・大麒麟との取組でマゲを引っ張られ反則勝ちとなった一番がある。その後二年間は三役に定着して何度も二桁の成績を挙げて大関目前とされながらなかなか壁を越えられなかったが、その中で三段目時代から6年間付き合っていた一般女性と1974年(昭和49年)9月場所前に結婚したことでそれまで問題だった精神面が次第に充実していった。[4][5]同年11月場所には西張出小結で12勝3敗、輪島の援護射撃もあって相星で並んだ、決定戦で弱いと評判の横綱・北の湖との優勝決定戦で一方的に突き出して初優勝[6]。翌1975年(昭和50年)1月場所でも11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で30勝15敗+優勝1回の好成績により大関に推挙された。なおその2場所前の1974年9月場所で魁傑は7勝8敗と負け越している。年6場所制以降、大関昇進力士で大関昇進前3場所間に負け越しの場所があるのは他に若羽黒がいる。

2度の大関昇進

新大関となった1975年3月場所は11勝4敗、翌5月場所は12勝3敗でこの場所は優勝した北の湖を千秋楽に撃破して2敗とした。優勝1点差で準優勝となり、綱取り場所となった7月場所は8勝7敗と不調。この場所の11日目が終了した時点で4勝7敗と後がなくなった状況でもなお休場を否定する意向を示したところ、報道陣が信じてくれないため「休場は試合放棄だ」と勢いで発言してしまったが、千秋楽まで4連勝と挽回して勝ち越した結果却って後年まで名言が残ることとなった。肘の故障で得意の攻めが出せず、続く9月場所、11月場所は2場所連続で6勝9敗と負け越して大関から陥落した。1976年(昭和51年)1月場所は10勝以上で大関特例復帰となったが結局7勝8敗と負け越し。同年5月場所には平幕の前頭6枚目まで下がったが、10勝5敗と敢闘賞を受賞した。

しかし9月場所では前頭4枚目で14勝1敗を挙げて2度目の優勝(元大関の平幕優勝は史上初)、11月場所には関脇に復帰して11勝4敗、1977年1月場所も11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で36勝9敗の好成績により若三杉と共に大関推挙を受けた。本来大関推挙を伝える使者が来るのは1度きりのところ、返り咲きとなる魁傑にも使者が送られた。大関特例復帰制度に与らず再昇進を果たしたからというわけではなく真摯に土俵に努める態度が評価され、云わば「魁傑だから」という理由で特例的に2度目の大関昇進伝達式を迎えることができた形である。当時魁傑本人はその時「一度大関の名を汚しちゃったので、(口上で)何と言えばいいのかなあ」と言っていたらしく、「大関の名を汚さぬように」を避け「謹んでお受けします」とだけ答えた[7]。なお、現行の「大関は2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で10勝すれば即復帰できる」という制度ができて以降、大関陥落の翌場所に10勝を挙げられず後に大関復活を果たし、さらに2度も大関推挙を受けた力士は、現在まで魁傑ただ1人のみである。

しかしながら大関に戻ってから2場所連続で8勝7敗の成績が続き、その上またしても肘の故障に悩まされ、1977年7月場所で6勝9敗と負け越し、9月場所も5勝10敗と連続して負け越してしまい再び大関から転落。大関から関脇へ2度も陥落した力士は当時魁傑が史上初めてで、1977年11月場所で再び大関特例復帰を目指したが、6勝9敗と又しても負け越し。その後魁傑は3度目の大関昇進(2度の大関復活)を目指すも、1978年(昭和53年)5月場所で小結に復帰するのが精一杯に終わり、好成績を挙げる事は殆ど無くなった(ほか貴ノ浪栃東も2度大関陥落、その内栃東が史上初の2度大関特例復帰を果たした)。大関再陥落後も魁傑は横綱や大関との名勝負を繰り広げたが、1979年(昭和54年)1月場所11日目でついに現役引退を表明した(4勝7敗、引退当日の不戦敗は除外)。初土俵以来一度の休場もなく、引退発表の席では「13年間、精一杯にやって来て、悔いは無い。」と笑顔で語った。

印象に残る取組として、引退する前年の1978年3月場所7日目、大関旭國との対戦で水入り、再水入りでも勝負がつかず、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖敏満 - 青葉山弘年戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前に掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番がある。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。

度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。特に左肘の状態がひどく、「相撲を続けている限り完治しない」とまで医者に告知されていた。このために大関から2度陥落したがその負傷さえなければ横綱になっていたという評価は現在でもある。「休場は負けだ」との名言を残し(「試合放棄だ」と言ったこともある)、不調で黒星が続いても決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、大関互助会に入らず生涯ガチンコを貫いたことで周りからは変人扱いされたという[8]。これについて、本人は、各界はちゃんと生きようとすると変人と思われる世界だが易きに流されてはダメだという発言を残している[8]。そのため、このような誠実な土俵態度とあいまって力士の手本と評され名大関と呼ばれた。また腰が高いという欠点もあって、相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって「魁傑は未解決だね」と言っていた。どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが表裏一体であるといった意味だったらしい。当時の子供の間では、その四股名から「かい(痒い)けつ(尻)」とも言われた。また、ある時、風呂場に石鹸がなかったため、ママレモンで身体を洗い、股間が爛れたことがある。同郷である元首相の佐藤栄作が、現役時代の後援会長を務めていた。

年寄時代

引退後は年寄・17代放駒を襲名し、1981年に花籠部屋から分家独立した(この時移籍した内弟子の中に後の横綱となる大ノ国がいた)。その後、弟弟子で12代花籠を継承した輪島が借金の担保に年寄名跡をあてがうという事件が発覚して廃業すると、一門の長老であった二子山親方(横綱・初代若乃花)に指名されて花籠部屋の弟子全員を引き取ることになり、放駒部屋は小部屋から一気に大部屋へと躍進した。

「クリーン魁傑」と称された現役時代に見せた誠実さは年寄になってからも評価され、引退後1年で審判委員に抜擢される。その後は協会の常勤役員(役員待遇)として事業部副部長、広報部副部長などの要職を十数年に渡り務め、2006年1月場所後に理事へ昇進し、審判部長の要職に就いた。

しかし2006年7月場所で優勝次点ながらも4場所連続で13勝以上した大関・白鵬の横綱昇進と、3場所通算で34勝した雅山の大関再昇進について見送る旨の発言をし、好角家から大きな反発を招いた。白鵬の直前3場所の成績(13勝の優勝同点+14勝の優勝+13勝の優勝1点差)は放駒親方の弟子・大乃国の横綱昇進時の成績(15戦全勝優勝+12勝の優勝1点差+13勝の優勝1点差)を上回り、雅山の直前3場所の成績(34勝11敗)は魁傑自らの大関昇進時の成績(優勝1回を含む30勝15敗)を上回るものであり、その整合性のなさが指摘された。しかし横綱昇進に関しては、形式上は番付編成会議及び臨時理事会で討議されるものの横綱審議委員会が事実上の昇進決定を下す機関となり、また横審委員会も当時は原則的に「大関で2場所連続優勝に『準ずる成績』」というものを採用しなかった[9]。また大関昇進に関しては、その時期における大関の人数、昇進に向けての機運などにも左右されているが、雅山の時は既に大関が5人いる上優勝がないという状況であった[10]。審判部長時代には三賞選考で1つの賞に複数人へ推挙・授与があり、最も適格な力士の単独受賞が望ましいのではと提案した[7]

2010年8月12日大相撲野球賭博問題などの責任を取って辞任した武蔵川晃偉理事長の後を受け、第11代日本相撲協会理事長に就任[11]。理事長就任以降は公益法人移行を巡って議論が本格化してゆき、自身も各自の年寄名跡を協会が2000万円で買い取る一括管理案、最高議決機関である理事会の半数を外部で占める私案などを提唱したが外部役員や外部有識者の意見を尊重しすぎたという評があり、大多数の年寄衆は理解を示さなかった[12][13]

2012年1月場所後に退任し、相談役に就任。2013年1月場所が協会員として最後の本場所となったが、停年(定年。以下同)を迎えるに当たっての記者会見やNHKのテレビ中継の解説(中入の時間や取組の合間に自身の足跡を振り返る)は一切断ったという。同年2月7日に放駒部屋は閉鎖して所属力士らは大乃国が創設した芝田山部屋に移籍させ[14]、自身は2月15日に停年退職した。

2014年5月18日午後2時10分頃、東京都西東京市のゴルフ練習場で倒れ、同日午後3時21分に搬送先の小平市の病院で死去[15][16]テンプレート:没年齢。死因は虚血性心疾患で、30年前より糖尿病に罹っていた[17]。愛弟子であった芝田山(元大乃国)は死去の知らせを受けて「全く体調が悪いところはなかったのに。気持ちの整理がつかない」と話し、さらに「ゴルフ(の練習)に行っていたのだから、俺より健康だったと思う」とも明かした[18][19][20]。没後に『浄篤院輝山魁傑居士』の戒名が付けられた[21]

2014年5月23日に通夜、5月24日に本葬(告別式)が宝仙寺(東京都中野区)にてそれぞれ営まれた[22]

人物

力士としては角界内部でも称賛する声が少なからず存在したが、大相撲八百長問題に際して大量処分を敢行したことや調査終了まで協会の公式行事を中止したことなどから理事長としては猛反発を受け、孤高に追いやられたという。

相撲関連

  • 北の湖は魁傑の急死に際して「現役時代は2本差すのがうまく、渋い相撲を取る人だった。私も何回もいいところで負けた。優勝決定戦で負けたこともある。大関に返り咲いたのも、できないことをやってのけた。頭が下がるところです」と現役当時を追憶し、その底力を称賛していた。[23]
  • 八百長問題が発覚した2011年2月2日、理事長時代の魁傑は真っ先に事務型トップの主事を呼んで計算させ「現金と換金可能有価証券残高は、全部でいくらだ。何場所、中止できる?」と問い、1年間中止しても協会は何とか存続できると聞いて後に実際に取った方針を固めたという。こうした問題解決に際して独特の力士社会に生きる親方衆や関取衆の猛反発を受け、さらには同じ理事会の出席者に「あんた」呼ばわりされる経験もしたとも伝わっている。理事長時代の苦労を物語るエピソードとして生前本人が「親方衆とゴルフに行く夢を見たんだがね、中からみんなの声がするのに、入り口が見つからず、私だけ入れないんだ。夢の中でも孤立しとるなあ」と語ったことがある。それでも理事長職を降りて2ヶ月が経過した2012年の春、天皇・皇后両陛下主催の園遊会に誘われた際に理事長時代の自身の判断を認めてもらったことで「冥利に尽きる」と当時発揮した手腕に自信を持つことができたという。[18]
  • 八百長問題の中で理事長職を務めた時期には体力を消耗し、2011年6月に震災を見舞う東北巡業を行った際にはまともに歩けない状態だった[24]。死去の際にはかつての弟子であった峰崎から「理事長就任後は体が曲がってかわいそうだった」とコメントが寄せられた[25]

私生活

  • 魁傑が死去した際、親方時代の魁傑の付け人を務めた三段目の前田は「師匠はイワシが大好物であり、普段は1杯ご飯を食べるけど、ポン酢で食べるイワシちり鍋だと3杯は食べた」と証言している。稽古場の屋上ではハト200羽を飼育していたが理事長就任で世話が困難になり、周辺住民の苦情もあってやめたという。初孫となった長男の男児にはプロゴルファーになることを期待し、次男に待望の女児が誕生した後は前田曰く「デレデレのおじいちゃん」になったそうであるがそれからさほど日を要さず死去してしまった。[26]

主な成績

  • 通算成績:521勝410敗 勝率.560
  • 幕内成績:367勝304敗 勝率.547
  • 大関成績:70勝65敗 勝率.519
  • 現役在位:74場所
  • 幕内在位:45場所
  • 三役在位:21場所(関脇13場所、小結8場所)
  • 大関在位:9場所
  • 連続出場:931回(1966年11月場所 - 1979年1月場所)
  • 三賞:10回
    • 敢闘賞:7回 (1972年5月場所、1973年1月場所,1974年1月場所,1976年5月場所,1976年9月場所,1976年11月場所,1977年1月場所)
    • 殊勲賞:2回 (1972年3月場所、1974年11月場所)
    • 技能賞:1回 (1972年3月場所)
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:2回 (1974年11月場所,1976年9月場所)
    • 三段目優勝:1回 (1966年11月場所)
    • 序ノ口優勝:1回 (1968年1月場所)
  • 金星:3個 (北の富士1個、琴櫻1個,北の湖1個)

場所別成績

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改名歴

  • 西森 輝門(にしもり てるゆき)1966年9月場所 - 1970年1月場所
  • 花錦 輝之(はなにしき-)1970年3月場所 - 1970年11月場所
  • 魁傑 輝之(かいけつ-)1971年1月場所 - 1973年3月場所
  • 魁傑 將晃(-まさてる)1973年5月場所 - 1979年1月場所

年寄変遷

  • 放駒 輝門(はなれごま てるゆき)1979年1月 - 2013年2月

テレビCM

いずれも放駒親方時代に出演。

関連項目

参考文献

石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)ISBN4-16-747501-4

脚注

  1. 魁傑死去 きまじめ一貫 八百長撲滅執念 nikkansports.com 2014年5月19日9時49分 紙面から
  2. 因みに部屋は当時の日大柔道部の練習場の隣にあったという。
  3. 雑誌「大相撲」 2001年5月号P.101
  4. 媒酌人は衆議院議員の安倍晋太郎安倍晋三の父)夫妻。
  5. 佐竹義惇「戦後新入幕力士物語」(ベースボール・マガジン社)
  6. 小結の優勝は、1957年夏場所の安念山以来、17年ぶりの事であった。
  7. 7.0 7.1 (追想録)西森輝門さん(前日本相撲協会理事長・放駒親方) 八百長問題で苦衷の決断 日本経済新聞 2014/7/4付
  8. 8.0 8.1 週刊ポスト2014年6月6日号141-143頁
  9. 但し2014年5月場所に昇進した第71代横綱・鶴竜の直前2場所は14勝(優勝同点)+14勝(優勝)と、弟子の大乃国以来27年ぶりに大関で2場所連続優勝を果たせずに横綱昇進となっている。
  10. 但し2012年5月場所の番付では、琴欧洲日馬富士把瑠都琴奨菊稀勢の里・鶴竜と、大相撲史上初めての「6大関」となっている。
  11. 武蔵川理事長辞任、後任に放駒理事…相撲協会 読売新聞 2010年8月12日閲覧
  12. 『大相撲ジャーナル』2014年4月号20頁
  13. 2012年5月29日付の朝日新聞には元三役の親方(匿名)が「公益法人制度改革対策委員会示された特別功労金は1名跡3000万円。この額では自殺者が出る」という内容の発言を行った様子が掲載されており、「1名跡2000万円」という放駒案と比較する1つの資料と言える。
  14. 間垣部屋閉鎖、放駒部屋力士は芝田山部屋へ SANSPO.COM 2013年2月7日閲覧
  15. 魁傑死去 きまじめ一貫 八百長撲滅執念 日刊スポーツ 2014年5月19日
  16. 大相撲:放駒前理事長死去66歳 八百長問題に対処 毎日新聞 2014年5月18日
  17. 西森さん、死因は虚血性心疾患=大相撲 時事ドットコム 2014年5月19日
  18. 18.0 18.1 朝日新聞2014年5月19日 13面
  19. “不屈の大関・魁傑”放駒前理事長、急死 唯一の平幕落ちから大関復帰、八百長問題解決に奔走 2014年5月19日6時0分 スポーツ報知
  20. 惜しむ声あふれる…松ケ根親方「おかげで協会立ち直った」 Sponichi Annex 2014年5月19日 05:30
  21. 日馬ら600人参列、戒名に「魁傑」入る…先代放駒親方・西森氏の通夜 スポーツ報知 2014年5月23日閲覧
  22. 300人が放駒親方しのぶ 元大関魁傑、都内で告別式 産経新聞 2014年5月24日閲覧
  23. 元大関魁傑急死…北の湖理事長悼む DAILY SPORTS ONLINE 2014年5月18日
  24. 誠実・不屈貫いた苦労人 元大関魁傑が死去 日本経済新聞 2014/5/18 23:43 
  25. 国技館に前理事長しのぶ声広がる 「あと10年は生きてほしかった」 MSN産経ニュース 2014.5.19 19:44
  26. 2014年5月20日 日刊スポーツ 記者席から デレデレじいちゃんに変貌した矢先

外部リンク

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