阿蘇惟澄

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阿蘇 惟澄(あそ これずみ、延慶2年(1309年)? - 貞治3年/正平19年9月20日1364年10月15日))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇氏の第10代当主。惟村(第11代当主)、惟武の父。通称は小次郎[1]

出自

惟澄の出自に関しては諸説あり、第6代当主・阿蘇惟景の子とも第7代当主・阿蘇惟国の子ともいわれる。また、阿蘇氏の支族である恵良氏の出身であり、第8代当主・阿蘇惟時の婿養子となって家督を継いだとも言われている。

生涯

元弘の乱

元弘3年(1333年)、幕命を受けて楠木正成が立て籠もる千早城攻めに参戦しようとしたが、その途上で護良親王の令旨を受けて官軍側に寝返った。

阿蘇氏の分裂

建武3年(1336年)、阿蘇氏の当主惟直に付き従い、九州に落ちてきた足利尊氏多々良浜の戦いにて戦ったが、敗れた。この戦いで当主惟直とその長男惟成が戦死し、前当主の惟時も在京していたため、尊氏は庶流の坂梨孫熊丸を阿蘇大宮司に任じた。惟澄はこれに納得せず孫熊丸に反抗し、阿蘇氏の分裂が始まった。翌1337年、惟澄は菊池氏と南朝勢力回復のため九州に下向してきた懐良親王を擁立し、北朝方の九州探題一色範氏の軍勢と交戦し勝利している。

興国元年/暦応4年(1341年)、惟澄は遂に肥後国南郷城にて坂梨孫熊丸らを討ち取った。しかし、今度は岳父である惟時が少弐氏らと結んで惟澄に敵対したため、内紛は収まらなかった。1347年には北朝方の少弐氏・大友氏の攻撃を受けたが撃退に成功している。

正平10年/文和4年(1355年)に惟時が死去し、その養子であった惟澄の長男惟村が惟時の立場を引き継いだが、一族の信望は惟澄に集まった。惟澄はその後も北朝方との戦いを優位に進め、正平16年/延文6年(1361年)には菊池武光と協力して大宰府の制圧に成功し、九州における南朝方の勢力は最盛期を迎えた。

正平19年/貞治3年(1364年)、死に臨んだ惟澄は、これまで北朝方として対立してきた長男の惟村に大宮司を譲り、その2ヵ月後に死去した。享年55。

死後

惟澄と行動を共にしてきた次男の惟武が惟村に反発し、また征西府も惟村の相続を認めなかったため、一族内での対立が再燃した。また、惟澄らが築き上げた征西府の勢力も、九州探題今川貞世(了俊)の出現や菊池武光などの死去によって1370年代初頭を境に衰退していくこととなる。

出典

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参考文献

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  1. 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年、18頁上段