阿蘇惟時

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阿蘇 惟時(あそ これとき、生年不詳 - 正平8年/文和2年(1353年))は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇氏の第8代当主。第7代当主・阿蘇惟国の子[1]。別名は宇治惟時。

生涯

1333年後醍醐天皇綸旨を受けて討幕軍に寝返った後、六波羅探題攻略や足利尊氏との戦いに参戦した。その後、子の惟直に家督を譲って隠居したが、1336年に惟直が多々良浜の戦いに敗れて自害したため、再び家督を継ぐこととなった。ところが、尊氏の調略で一族の坂梨孫熊丸が相続者として大宮司に選ばれたため、阿蘇氏内部で内紛が発生する。惟時はこれを抑えるため、やむなく北朝側に寝返った。

しかし家中で不満が相次いだため、1349年に再び南朝側に帰順する。1351年家督を養嗣子の惟村に譲ったが、惟村の実父・惟澄が当主となって実権を握っていた。1353年に死去。

出典

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参考文献

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  1. 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年、18頁中段