長尾政景

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テンプレート:基礎情報 武士 長尾 政景(ながお まさかげ)は、戦国時代武将上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。

経歴

大永6年(1526年)、長尾房長の子として生まれる。長尾景虎(後の上杉謙信)の遠縁に当たる。妻は長尾為景の娘(景虎の姉)の仙桃院天文6年(1537年)頃に婚約が成立した。

天文16年(1547年)、府中長尾家家中で長尾晴景と景虎との間で抗争が起こると、政景は晴景側につく。政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が景虎側だったことなどからであろう。天文17年(1548年)12月、晴景は景虎に家督を譲って隠居した。

天文19年(1550年)、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年(1551年)、景虎の猛攻に遭って降伏した。以後は配下の上田衆を率いて景虎の重臣として活躍し、弘治2年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得して押し止め、復帰させる。また永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど、様々な功を挙げた。

永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城近くの野尻池(現在の銭淵公園内にある池と、湯沢町にある大源太湖の二説がある)で溺死した。享年38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信の命を受けた宇佐美定満による謀殺(『北越軍談』)、下平吉長による謀殺(『穴沢文書』)などの説があるが、真相は分かっていない。同船していた家臣(国分彦五郎)の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んだといわれる。

政景が溺死したのは、宇佐美定行(定満)[1]が城主だったとも伝わる野尻城(琵琶島城[2])のある野尻湖(芙蓉湖)という説もある[3]。 実際に政景の墓が野尻湖の湖畔に作られたが、墓前での落馬が多い事から後に野尻湖に近い真光寺に移されて現存する[4]新潟県南魚沼市には、龍言寺(現在は山形県米沢市に移る)の跡地に長尾政景公墓所(道宗塚)がある。

家督は早世した長男義景に代わり、次男の顕景(のちの上杉景勝)が継いだが謙信の養子となったため、山内上杉家と統合された形で上田長尾家自体は事実上断絶する。

逸話

  • 一門衆の筆頭として家中を差配したが、父房長の叛服(はんぷく)常無き遍歴に対し眉をひそめる向きは多く、その孫の顕景(景勝)の代に至るまで、「上田衆」の語そのものが差別感情を含んで扱われた。
  • 正室仙桃院とは円満な夫婦生活を営んだ。米沢市常慶院に残る「長尾政景夫妻像」の掛軸は、上部に2人の位牌と仙桃院一族の法名、来迎する阿弥陀如来が描かれている。この仙桃院の姿が俗体の若い姿で描かれていることから、政景死後に仙桃院によって制作され、御館の乱で一族の多くを失った際に法名が書き加えられ、以後も長く供養されたと考えられる[5]

出典

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関連項目

  • 胴上げ(婿の胴上げは政景が創始した)

テンプレート:越後長尾家歴代当主
  1. 琵琶島(弁天島・お島・野尻島)にある宇佐美定行の墓は、宇賀神社にある案内板によると溺死を知った上杉謙信が定行の霊を弔うために、具足を埋めた経塚が墓所として伝わったと解説されている
  2. 別名で琵琶島城や枇杷島城ともいう。「日本城郭大系〈第8巻〉長野・山梨 」平井聖
  3. 野尻湖にある琵琶島の宇賀神社には、政景と共に溺死した宇佐美定行(定満)の墓があり「長野県公式観光ウェブサイト」・「信濃町観光協会」ホームページや「野尻湖ナウマンゾウ博物館」の野尻湖周辺史跡案内では写真付きで解説されている
  4. 野尻湖での溺死説と落馬による墓の移築は、「真光寺」の寺山(墓地山)にある案内板や「野尻湖ナウマンゾウ博物館」にある野尻湖周辺史跡案内にも写真付きで解説されている
  5. 田沢裕賀 『日本の美術384 女性の肖像』 2,23頁、至文堂、1998年 ISBN 978-4-784-33384-4