宇佐美定満

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テンプレート:基礎情報 武士 宇佐美 定満(うさみ さだみつ)は、戦国時代武将越後琵琶島城(枇杷島城)主(現在の新潟県柏崎市)。越後上杉氏の家臣。上杉謙信の軍師「宇佐美定行」の名でも知られる。上杉二十五将、上杉四天王の一人であり、後世に越後十七将に数えられる。

生涯

宇佐美氏伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)から出た一族で、藤原南家乙麻呂工藤氏の支流にあたり、工藤祐経の弟・祐茂(すけしげ)を祖とする家柄である。

定満は延徳元年(1489年)、越後守護・上杉定実の配下であった宇佐美房忠(ふさただ、「房」は定実の養父・房能から偏諱を受けたものであろう)の子として生まれる。父・房忠は定実の復権を目指して長尾為景と戦い、永正11年(1514年)に戦死している。この間に定実から1字を賜い定満と名乗ったものと思われる。

定満は越後守護の上杉氏の一門、定実の出身家柄でもある上条上杉家に仕え、天文4年(1535年)に定実の弟・上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦ったが、天文5年(1536年)に春日山城下で敗北すると、為景に降伏した。

為景の死後、その子の長尾晴景、そして長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。天文19年(1550年)、景虎に反抗した一族である坂戸城長尾政景を屈服させるのに戦功があった。

永禄年間にはすでに老齢で現役から隠退していたといわれる。

永禄7年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で政景と共に溺死し、彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。嘗て謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われている(異説あり)。享年76。

また、これ以前の永禄5年(1562年)、武蔵上尾原における北条氏との戦いで戦死したとも伝えられている。17世紀中に紀州藩に仕えた軍学者宇佐美定祐(さだすけ)が、当時流行していた武田信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して上杉謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみ さだゆき)[1]という人物を上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖であると仮託し、架空の軍師宇佐美定行の名が広く知られるようになるが、そのモデルは実在の武将である宇佐美駿河守定満であると考えられている。

墓所は、新潟県南魚沼市雲洞の雲洞庵長野県上水内郡信濃町野尻にある琵琶島野尻湖)の二ヶ所に伝わるが、琵琶島の宇賀神社にあるのは墓所ではなく具足を埋めて供養した経塚である[2]

「宇佐美佐助代覚書」には、畠山義春(一時期、上条上杉家の当主)が「宇佐美定満には息子が居なかった」とする記述があったが、のちに畠山入道義春の息子・義真が、父の発言は間違いだったとする証文を徳川頼宣徳川家康10男、紀伊徳川家祖)に提出している。定満の息子としては定勝(さだかつ)と勝行(かつゆき)の二人が確認されている。

天文18年(1549年)6月5日、天文20年6月の平子孫太郎宛の手紙には、 「私は無力なので家来の者たちも困惑している」 「知行を1ヶ所も渡されていない」 とあり、モデルとなった定満の活躍は創作ということになる。

脚注

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参考文献

  • 高橋修『異説 もうひとつの川中島合戦 紀州本「川中島合戦図屏風」の発見』(洋泉社新書y、2007年) ISBN 978-4-86248-126-9

関連作品

小説
映画
テレビドラマ

関連項目

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  • 宇賀神社の案内板や「信州・風林火山」HPの史跡ガイド(解説:信濃町・野尻湖観光協会)では【宇佐美定行の経塚】は後世に墓所と口伝したと解説されている