足利藤氏

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足利 藤氏(あしかが ふじうじ、生没年不明)は戦国時代の武将。足利氏の一門。父は足利晴氏、母は簗田高助の娘。古河公方(在職:1561年 - 1562年)として擁立され、当時の関白近衛前久にもその地位を承認されているが、現代においては歴代公方には数えない。

生涯

足利晴氏の長男として生まれる。13代将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱を与えられている事からも明らかなように、京都の室町幕府からも認められた次代古河公方であった。

母方の祖父・簗田高助は家中の親北条派の中心として、晴氏の後添えの正室に北条氏綱の娘・芳春院を迎え入れるように尽力した実力者であった。

ところが晴氏と氏綱の後を継いだ北条氏康との関係は次第に悪化していき、晴氏は関東管領上杉憲政上杉朝興らと同盟して対抗するも天文15年(1546年)の河越夜戦で氏康と戦って大敗してしまう。氏康は晴氏を隠退させ、異母妹である芳春院の息子で、北条の血を受けた足利義氏(藤氏にとっては異母弟)を古河公方とした。

弘治3年(1557年)、藤氏は挙兵して古河御所奪還を試みるが失敗し、晴氏は栗橋城に幽閉され藤氏も追放されてしまう。それでも、藤氏は安房里見義堯を頼って再起の機会を窺い、彼に従う簗田晴助(高助の子)らは越後に滞在中の関東管領上杉憲政と彼を庇護していた長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を依頼した。

永禄4年(1561年)、景虎はついに関東へ出兵。藤氏救援という名目だけでなく関東管領上杉憲政、関白近衛前久を擁し大義名分を十分に得た軍勢は関東の諸豪族の応援で10万余にまで膨れ上がった。小田原城ら諸城に籠城する北条方を攻め切れなかったものの、藤氏は義氏を放逐して古河御所の奪還に成功した。

上杉憲政に代わって関東管領の本来の職務である古河公方擁立に成功した長尾景虎は、上杉憲政から上杉の家督と関東管領の地位を譲られた。上杉謙信(便宜上、以後は謙信とする)は、上杉憲政、近衛前久らと諮り、義氏の古河公方就任を完全に否定し、関白、関東管領の名において藤氏を足利晴氏(前年死去)の後継として正式に古河公方として任命することを決定した[1]

これを佐竹氏里見氏ら反北条氏の関東諸大名も受け入れたため、数年の間、足利藤氏は正統な古河公方となったのである。

だが、謙信が藤氏を残し越後に帰国すると直ちに北条氏は反撃を開始し、その年の10月には古河を攻撃したので、藤氏は里見氏家臣の多賀信家(蔵人・高明)が治める上総池和田城(千葉県市原市)へ逃れた。

その後も古河を巡って上杉と北条は争奪戦を繰り広げ、藤氏も上杉方の代表として古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、永禄5年(1562年)に北条軍が古河御所を攻略した際に藤氏は捕虜となって小田原に送られてしまう。

その後、藤氏の身柄は相模伊豆といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明になる。北条氏康によって処刑されたと言われている。

古河公方・足利藤氏を失った事により、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に越相同盟が締結された時にも、唯一の古河公方となった足利義氏を謙信は認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の家国、藤政、輝氏が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、天正年間を境にその活動はみられなくなる。

脚注

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関連項目

先代:
足利晴氏
古河公方
歴代に含めず
次代:
足利義氏
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  1. 越相同盟締結時に北条氏は国府台合戦の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。