上杉朝興

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上杉 朝興(うえすぎ ともおき)は、武蔵国戦国大名で、扇谷上杉家の当主。

略歴

長享2年(1488年)、上杉朝寧の子として生まれる。叔父の上杉朝良養子となる。永正2年(1505年)、山内上杉家との抗争に敗れた朝良は隠居を余儀なくされたため、家督を継いで扇谷上杉家の当主となるが、実権は依然として朝良が握っていた(ただし朝良の隠居はなかったとする説もある)。永正15年(1518年)に朝良が死去し、実権を掌握する(またはこのとき初めて家督を継承する)が、朝良には晩年になって実子の藤王丸が生まれており、朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように遺言し、朝興は藤王丸の後見人(名代)のような立場になったとされている。

大永4年(1524年)1月、太田資高相模国の新興大名である北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原(現東京都港区高輪)で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。同年2月には資高の一族の太田資頼も氏綱に内応して岩付城を奪うが、7月には朝興に帰参したためそのまま岩付城に置かれている。このため、大永5年(1525年)2月には北条氏綱の反撃を受けて岩付城を攻め落とされたため、資頼は石戸城に一時退いた[1]。このため、朝興は宿敵であった山内上杉家上杉憲房や、甲斐国都留郡において北条方と抗争していた守護武田信虎、更に上総国の実力者である真里谷恕鑑との同盟を模索している。同年8月、白子原の戦い(現埼玉県和光市白子)で北条勢を破り、翌大永6年(1526年)6月には蕨城を奪回した。

享禄3年(1530年)6月、小沢原の戦いでは氏綱の嫡男・北条氏康に敗れたが、同年9月には太田資頼の攻撃によって岩付城を奪回している。

天文元年(1532年)、藤王丸を殺害(享年15)し、自らの息子である朝定を正式に後継者にした[2]。天文2年(1533年)には武田信虎の嫡男勝千代(晴信)の正室として娘を嫁がせる[3]など、山内上杉家・武田氏らと連携して北条氏綱を攻めたが、遂に江戸城奪回を果たすことなく、天文6年(1537年)4月27日、河越城で病死した。享年50。跡を子の朝定が継いだ。

脚注

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参考文献

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  1. 黒田基樹「岩付太田氏の系譜と動向」(黒田 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)総論)
  2. ただし、藤王丸の殺害を記した『快元僧都記』天文元年12月17日条によれば、藤王丸は既に後北条氏の支配下にあった江戸で殺害されたことになっており、後北条氏による殺害の可能性もある(黒田基樹「関東享禄の内乱」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3)。
  3. 勝山記』による。