豊川稲荷

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豊川稲荷(とよかわいなり)は、愛知県豊川市にある曹洞宗寺院

正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院である。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っている。また、日本三大稲荷の1つとされる[1]

北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院下記)を持つほか、修行道場として僧堂を設置している。豊川高等学校を運営。

本尊・鎮守

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法堂(本尊の千手観音を祀る)
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山門 (現存最古の建造物、
今川義元の寄進による)
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東京別院(江戸参詣所)の山門
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奥の院 (かつての稲荷本殿、この堂宇が妙厳寺から分離の危機にあった)

妙厳寺の本尊は千手観音である。

豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである[2]
吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼称する。

沿革

嘉吉元年(1441年)、曹洞宗法王派の東海義易によって創建。室町時代末期、今川義元伽藍を整備した。当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。

開山

開祖の東海義易は幼名を岩千代といい、9歳の時に、曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門に入った。そして、東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し[3]、その後、諸国の行脚に入った。永享11年(1439年)、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立する。存命中に妙厳寺の跡を次世に譲り、再び歓喜院に隠栖した。

稲荷信仰

前述のとおり、豊川稲荷は吒枳尼天を鎮守とする。

縁起によると、鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が入し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、このを護法神として尊崇するようになったとされる。

その後、寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。

また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎と名乗る翁の姿をしたがやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。

戦国時代になると、三河領主の今川義元、徳川家康から外護を受け、また、九鬼嘉隆などの武将からも帰依を受けた[4]。海上交通の守護神は四国の金毘羅宮が知られるが、毛利水軍の勢力範囲のため、嘉隆は、家康の領内にあり容易に祈願できる豊川稲荷を信仰したのではないかといわれる。

江戸時代になると、大岡忠相渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。皇族においては有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになる。

神仏分離令

1871年(明治4年)、神仏分離令に基づき、妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及ぶが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められる[5]。しかし、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。以降は「豊川吒枳尼真天」と号するようになる(だだし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する、現在の鳥居が立ったのは戦後である)。

また、江戸時代に全国の寺社に吒枳尼天を勧請していた、愛染寺伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への吒枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになる。

全国の稲荷神社は京都の伏見稲荷を総本社としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺院であり、上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。

史料上からの解釈 豊川稲荷という名称の起源

江戸幕府の朱印状には、すべて、三河国宝飯郡豊川村妙厳寺寺領、となっており、豊川稲荷と正式に呼称されていた事実は確認できない。また、明治4年の西大平藩管内三河国豊川村妙厳寺境内豊川明神神仏区別(太政官)において、題名には、妙厳寺または豊川明神と記載されており、本文中に初めて、豊川稲荷、という呼称が登場する。それによると、6、70年以来、土地の名前の由来により、豊川明神または豊川稲荷と呼称、伏見稲荷社の触下にてもない。と説明している。


御宝号・真言

御宝号 南無豊川吒枳尼真天
真言 オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ

年中行事等

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初詣の本殿前の模様。警察などによる交通規制が行われている。(2010年元旦)

初詣

正月初詣期間中は大変な数の参拝客が訪れるため、元旦より1月5日までの9時~17時は豊川稲荷周辺及び門前通りの道路が完全通行止となり、全て歩行者天国となる。

稚児行列

年に2回、春季大祭(5月4~5日)と秋季大祭(11月22~23日)に稚児行列が行われる。衣装は一般的だが、化粧は歌舞伎舞踊に近い厚化粧となり、巫女を思わせる熨斗飾りを付ける。

縁日(月例祭)

毎月22日 (妙厳寺開山の、旧暦11月22日に由来する)

み魂まつり(盆おどり)

8月7 - 8日

境内

建築物

  • 総門 - 入母屋造、唐破風付きの四脚門。1884年(明治17年)建立。
  • 山門 - 入母屋造楼門。天文5年(1536年)建立。
  • 法堂 - 「本堂」とも。妙厳寺本尊の千手観音像を安置。山門を入った正面に位置する。天保年間(1830 - 1843年)の再建。
  • 本殿 - 当寺の信仰の中心になっている吒枳尼天を祀る。境内左手奥、鳥居をくぐった先にある。入母屋造重層屋根、妻入の大規模な堂宇。1908年(明治41年)に着工し、20年以上をかけて1930年(昭和5年)に竣工した。
  • 最祥殿 - 「書院」とも。信者の接待用の建物で、内部には400畳の広間がある。1929年(昭和4年)建立。
  • 寺宝館 - 寺所蔵の文化財を保存

境内には他に鎮守堂、鐘楼堂、宝雲殿、万燈堂、三重塔(小規模)、弘法堂、大黒堂、奥の院、景雲門などの諸堂がある。

その他

  • 霊狐塚(れいこづか) - 1,000体以上の狐の石像が安置されている。
  • 慰霊碑 - 海軍工廠空爆で亡くなった人々を慰霊。
  • 千本のぼり(千本旗) - 参道に並ぶ参拝者の願い事が書かれた1,000本の幟。
  • 稲荷公園 - 境内の一部を開放して整備。
  • 妙厳寺庭園
  • 豊川高等学校 - 豊川稲荷が運営母体となっている。現在は近郊に移転。跡地を駐車場とした。

文化財

  • 千手観音菩薩像 - 本尊
  • 木造地蔵菩薩立像 2躯 - 鎌倉時代、国の重要文化財

交通アクセス

豊川稲荷別院

脚注

  1. 三大稲荷の選定には諸説あり一定していない。豊川稲荷では他の2箇所を伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社としている(稲荷神#信仰も参照)。
  2. リンク先のページは「荼枳尼天」の表記であるが、このページは妙厳寺の表記に合わせる。
  3. 東海地方のこの門流を特に「普済寺十三門派」と呼ぶ。義易を初め、普済寺の十三人の高弟がそれぞれ寺院を創建・再建し、この地方における曹洞宗の普及を進めた。
  4. 織田信長豊臣秀吉が信仰したともいわれるが、確かな記録にあることではない。
  5. 大岡越前守は晩年に1万石を拝領し三河・西大平藩の藩主となり、豊川は西大平藩の領地となった。この取り調べの際に、新政府と妙厳寺の間に入ったのも西大平藩である(廃藩置県まで)。

関連項目

外部リンク

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