大岡忠相

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大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。

人物

8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。は忠義、のち忠相。

生涯

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「大岡七宝」特に大岡忠相が用いた図案の家紋

出生から町奉行就任まで

1,700の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれる。貞享3年(1686年)、同族の1,920石の旗本・大岡忠真(大岡忠右衛門)の養子となり、忠真の娘と婚約する。貞享4年(1687年)には5代将軍・徳川綱吉に初めて御目見する。元禄9年(1696年)には従兄にあたる大岡忠英の事件に連座して閉門処置となる。翌年には赦され、養父病死のため元禄13年(1700年)、家督と遺領を継ぎ、忠世家3代当主となる。

綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)には書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の1人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長する。宝永6年(1709年)には嫡男・忠宜が誕生する。

6代将軍・徳川家宣の時代、正徳2年(1712年)正月に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任、佐野直行の跡役で、相役は渡辺輝。同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守に叙任。正徳3年(1713年)には交代で帰府し、翌年に再び赴任している。

在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという[1]

7代将軍・徳川家継の時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮。大久保忠位の跡役で、相役は島田政辰朽木定盛。同年8月には徳川吉宗が将軍に就任し、解任された新井白石間部詮房らの屋敷代にも携わっている。忠相は翌享保2年(1717年)、江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改める。

町奉行時代の活躍

吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手するが、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。享保4年(1719年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行う。享保8年(1723年)には相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となる。

市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2,000石を加増され3,920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中賭博などの取締りを強化する。

下層民対策では、享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師・小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。

現在では、書籍の最終ページに「奥付」が記載されるが、これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で享保6年(1721年)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した(ただし、少数ながらそれ以前にも自発的に奥付を付けている書籍はあった)。

また、在任中の享保7年(1722年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒賞も積極的に行っている。

寺社奉行時代から晩年

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大岡家墓所「浄見寺」

元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2,000石を加増され5,920石となり、足高分を加え1万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍・吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの配慮をしたという。

寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。寛延4年(1751年)6月、大御所・吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月に死去、享年75。

法名は松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。墓所は代々の領地のある神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。また、東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺。

経歴

大岡政談

江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われ、また現代にいたってもTVドラマ化されている。

史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている[2]。現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの(「直助・権兵衛」[3])や忠相没後の事件も含まれている。また尾佐竹猛は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の英知として、互いに実子と主張し1人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承など、聖書などに記される裁判物語がイスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事(「縛られ地蔵」と同様の逸話)になった後、エピソードに翻案され含まれたとする説を提唱。永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、木村毅は『比較文学新視界』「ソロモン裁判と大岡政談」(昭和50年(1975年))でチベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響で紛れ込んだとする。

通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。だが、学習院大学名誉教授大石慎三郎は、大岡に関する伝記史料として信ずるに足りるのは『大岡忠相日記』がほとんど唯一のものである、とする。この日記は、私生活を記したいわゆる日記ではなく、公人としての忠相の職務日録であり、行政官僚としての町奉行を活写しており、大岡政談とほとんど関係ないことがわかる。しかしながら町火消し制度の創設や、小石川養生所の設置などの事実に、「政治家はかくあるべし」という江戸庶民の願望が仮託されて「政談」に結晶されたともいえる。

エピソード

  • 忠相はの持病があり痔の悪化により公務を欠席した事がある(『大岡忠相日記』より)。
  • 勤務中はいつも髭抜きを使いながら仕事をしていた。彼の肖像画にも髭抜きで髭を抜く姿が描かれた物がある。

大岡家文書

大岡家文書(三河国額田郡西大平大岡家文書)は『大岡日記』(大岡越前守忠相日記)や『享保撰要類集』や将軍家内書など忠相期を中心に忠相以前の将軍家朱印状などを含めた文書群で、昭和43年(1968年)に大岡家から国文学研究資料館に寄託されている。『撰要類集』は忠相が町奉行時代に編纂させた判例集で、忠相の評定所時代から寺社奉行時代、死後も幕末まで編纂は続けられた。

参考文献

江戸時代の随筆。忠相についての逸話を収録。
  • 大石学『大岡忠相』 吉川弘文館人物叢書、平成18年(2006年)。 ISBN 4-642-05238-0
  • 大岡家文書刊行会 編纂『大岡越前守忠相日記』全三冊(三一書房、1972 - 1975年)。

脚注

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関連作品

テレビドラマ
映画
漫画

関連項目

先代:
大岡忠真
大岡宗家
1700年 - 1751年
次代:
大岡忠宜

テンプレート:西大平藩主

テンプレート:江戸町奉行
  1. 当時の紀州藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する吉宗は、事実上一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたという。山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁ができたとする同様の巷説は幾つかあるが、実際には奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなく、後代に成立したものであると考えられている(宇野脩平『大岡越前守忠相』)。また遠国奉行を経て江戸町奉行という昇進コースは順当なものであり、60代で就任することが多かった町奉行に40代で就任したことは、とりたてて抜擢人事などではないと指摘される。山田と松坂との境界を巡る訴訟については、紀州藩との境域問題を解決したのは第18代大岡越前ではなく第10代桑山丹後守(後改下野守)であることは「寛文十年二月十日去る寛文七年十一月十五日桑山丹後守に依って確定した神領前山境域に対し幕府より其の朱印状が下付された」と「山田奉行御役所旧記」に記録されており、山田三方会合「山田古法式目」にも桑山貞政奉行が紀州藩に申し入れ、寛文7年11月に解決したと記されている。これを大岡越前の業績としたのは、享保以降、歌舞伎の題材を狙った作り話と言う説がある。
  2. 『大岡忠相』(大石学著・吉川弘文館)274-277頁、『実録 江戸の悪党』( 山下昌也著・学研新書)44頁、『江戸の名奉行』(丹野顯著・新人物往来社)78-79頁。
  3. 殺人犯の直助とは別人の権兵衛だと言い張っていた男を、裁判の最後に「これ直助」と呼び、つい返事をしたところを捕えたというエピソード。