血脈相承 (日蓮正宗)

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血脈相承(けちみゃくそうじょう)は、法門、戒律を一人の師から一人の弟子へ絶えることなく授け伝えていくこと。 師資相承(ししそうじょう)ともいう。相承とは相対授承のこと。

概要

日蓮正宗での位置付け

唯授一人の血脈相承(ゆいじゅいちにん の けちみゃくそうじょう)が、日蓮正宗の正統性を主張し、また、時の法主による広宣流布指揮の絶対性、教義論争裁定・本尊書写・各種称号授与の専有性を保障するものとして、法主から次期法主へと伝えられている。

血脈相承は時と場合により、当分の間は公表しない内証形式がとられることがある。過去には3祖日目上人から4世日道上人へ、66世日達上人から67世日顕上人への相承が内証形式で行われたとされるが、日顕上人への相承については否定する者もいる。しかし日顕上人への相承を否定してしまうと、日興上人以来続いてきた法水写瓶(ほっすいしゃびょう)を否定する事と同義になってしまう。

日蓮大聖人は本因妙抄に「日蓮嫡嫡座主(ちゃくちゃくざす)伝法の書・塔中相承の稟承唯受一人(ゆいじゅいちにん)の血脈なり、相構(あいかま)え相構え秘す可(べ)し秘す可し伝う可し、法華本文宗血脈相承畢(おわ)んぬ」と述べられ、御義口伝に「秘す可し秘す可し唯受一人(ゆいじゅいちにん)の相承(そうじょう)なり、口外す可からず」と教示されている。

日蓮大聖人から日興上人に唯受一人の血脈相承がなされたことは、日蓮一期弘法付属書に「血脈の次第 日蓮日興」とおしたためになっていることで明らかである。

なお、真言密教や禅宗や浄土宗でも血脈相承をいう。

法華系各派の解釈

日蓮正宗と日蓮宗の論争

日蓮正宗では

日蓮-日興-日目以降の歴代大石寺住職のみに伝わる

としているが、日蓮宗サイドでは

  • 日蓮正宗の主張が真実なら、宗祖の本弟子六老僧の中で後に反・日興となった五老僧は全て謗法化した人物ということになるが、なぜ宗祖は、彼ら五人の謗法化を予見することもできずに本弟子として認めたのか

  • 日蓮正宗の主張の根拠である「池上相承書」「身延相承書」の二箇相承は、興門流の初期の記録には存在しないから偽書である
  • 身延相承の日付けと日蓮の行動が一致しないから偽書である
  • 二箇相承は日興が日目に譲った大石寺ではなく、日興が晩年隠居した重須談所(現在の北山本門寺)に保管されていたとされる文書である上に、原本は現在では行方不明であるから論議の対象にすらならない

等を根拠にこれを否定している。

だが、五老僧が身延から離れた後に、日向 (日蓮宗)が日興の元へ訪れて、日興が日向に学頭職を与えている事については、日蓮宗サイドでは結論が出ていない。日興を含めた六老僧の立場が同一であるのならば、日興が学頭職を授け、それを日向が受け入れるのは、矛盾が生じる。従って各宗派の主観的な視野(宗教的観点)ではなく、客観的な視野(歴史的観点)から鑑みれば、日興に血脈が相乗されていた事を、日向が認めていた事実が存在するといえる。

富士門流諸派の解釈

1876年(明治9年)、大石寺を含む富士門流(日興門流・興統法縁)の各本山・末寺により日興門流の統一教団日蓮宗興門派(本門宗)が発足した。明治政府が諸宗教・宗派に共通して求めたフォーマットに基づき、本門宗内では総本山や管長の選出方式をどのように定めるかについて議論が行われたが、大石寺が主張する「大石寺が富士門流における嫡流である」とする主張は、他の7本山の承認を得られず、1900年の大石寺本末による本門宗離脱と日蓮宗富士派(日蓮正宗)結成の原因となった[1]

日蓮正宗以外の日興門流諸派における「血脈相承」の位置づけ、解釈は以下のとおりである。

北山本門寺

北山本門寺では、伝統的に言っても、血脈相承というもの自体を極めて軽視してきた。 まずその出発点からして、日興から重須を譲られた日代は、一山大衆の手によって追放の憂き目に遭っている。当然、日興から日目への血脈相承も認めなかった。 さらに現在では、二箇相承も否定している。

西山本門寺

西山本門寺では、日興から日目への血脈相承を認めず、『八通譲り状』を根拠に日代正統説を立てている。しかしながらその一方で、かつて本門宗の管長として三派合同を推進した第49世貫主由比日光は、戦後は日蓮正宗への合流を推進し、1957年(昭和32年)、本山単独で、日蓮宗からの離脱と日蓮正宗への合流を果たした。1960年(昭和35年)、由比日光は逝去したが、その後継指名にもとづき日蓮正宗は下条妙蓮寺の前貫主吉田日勇を西山の住職に任命した。しかしながら由比日光による日蓮正宗への合流は塔中や檀信徒への根回しを欠いて性急に行われたものであったので、反対派による合流手続きの無効訴訟が起こされた。この訴訟は1975年に最高裁の判決が下され、檀信徒側が勝利、吉田日勇は西山を退去し、後任の森本日正により、西山本門寺は日蓮正宗より離脱し、単立となった。

保田妙本寺・小泉久遠寺

保田妙本寺小泉久遠寺では、日目から日道への血脈相承を認めず、日郷正統説を立てている。

この2本山のうち、保田妙本寺は1957年(昭和32年)、日蓮宗から独立し、いったん日蓮正宗に合流したが、1993年、日蓮正宗より離脱して単立となった。

要法寺

京都要法寺の初代日尊は日目の弟子で、日道とは兄弟弟子であり、大石寺とは密接な交流があり、江戸時代には大石寺の最有力の末寺として9代連続で大石寺の法主を輩出したこともあった。

しかしながら、京都市内の日蓮系諸門流の15ケ寺とかわした寛文の盟約(1665)を口実として、要法寺が、本尊の形式(「一士四尊の仏像」とするか「十界曼荼羅」とするか)に他門流の介入を受けて「一士四尊」の造仏を強いられたこと、要法寺と大石寺の間で生じた江戸妙縁寺の帰属をめぐる対立(1855-1856)などにより、大石寺との本末関係を解消するに至った[2]

1882年(明治17年)、本門宗の総本山・管長の選定規則をめぐる議論における大石寺の「管長は(中略)血脈相承の上人をもって任ずべきである。管長の住すべき山は(中略)すなわちそれは大石寺であり、血脈相承の嫡統連綿は大石寺の貫主以外になく(後略)」という主張に対し、要法寺は「新たな総本山を北山に創設、八山の名称を無くし、新たに大本山の七山とする、管長は七山から輪番を選出する(後略)」という提案を別におこない、大石寺の主張に真っ向から対抗した[3]

1950年(昭和25年)、旧末寺50ヶ寺とともに日蓮宗より分離し、日蓮本宗の総本山となっている。

参考文献

  • 榎木境道『富士門流の歴史 重須編』妙教編集室,2007

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 榎木,2007,pp.476-481
  2. 榎木,2007,pp.396-424
  3. 榎木,2007,pp.476-480