日達

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日達(にったつ、1902年4月15日 - 1979年7月22日)は、日蓮正宗大石寺第66世の法主。細井姓。阿闍梨号は妙観。1959年登座。

略歴

  • 1902年(明治35年)4月15日、東京京橋で誕生。
  • 1910年(明治43年)8月12日、総本山第57世日正を師範として得度し精道(せいどう)と名乗る。
  • 1933年(昭和8年)、娘婿・菅野日龍能化(元・宗務院庶務部長、東京・大宣寺住職、道号・慈雲)が誕生。
  • 1936年(昭和11年)、本伝寺(大阪府堺市)住職、
  • 1939年(昭和14年)、長男・細井珪道師(元宗会議長、元東京・常在寺住職、2010年死去)が誕生。
  • 1941年(昭和16年)、常在寺(東京都豊島区池袋)の住職となる。
  • 1946年(昭和21年)、宗務院庶務部長に就任。
  • 1956年(昭和31年)、総監に就任。
  • 1959年(昭和34年)11月15日、第65世日淳より「血脈相承」を受ける。17日、日淳の遷化(死去)に伴い、「日達」と名乗り、日蓮正宗管長・大石寺住職、法主に就任。
  • 1961年(昭和36年)11月、宗祖日蓮大聖人680遠忌法要を執行。大石寺三師塔東大塔建立。同年、大石寺塔中本種坊を創設。
  • 1962年(昭和37年)4月15日、還暦を迎える。
  • 1963年(昭和38年)3月、大石寺塔中遠信坊を再興。
  • 1964年(昭和39年)3月、大石寺塔中雪山坊を再建新築。同年4月、大石寺客殿(本門大客殿)を再建新築。同年、大石寺塔中妙遠坊を創設。
  • 1967年(昭和42年)12月、大石寺塔中本住坊再建新築(9月1日に本尊を書写)。
  • 1969年(昭和44年)11月、大石寺塔中妙泉坊妙住坊を創設。
  • 1972年(昭和47年)4月15日、古稀を迎える。
  • 同年7月、大石寺塔中百貫坊再建新築(5月28日に本尊を書写)。
  • 同年10月、大石寺に正本堂を建立、大石寺常来坊常灯坊を創設。
  • 1974年(昭和49年)、妙信講(後の冨士大石寺顕正会)を破門。テンプレート:Main
  • 1977年(昭和52年)3月、大石寺塔中理境坊再建新築。
  • 1978年(昭和53年)4月15日、第67世日顕に「血脈相承」を内付とのちに日顕自身が自己申告。
  • 1978年6月、大石寺塔中遠寿坊を創設。
  • 1979年(昭和54年)4月15日、喜寿を迎える。
  • 晩年には心臓病を患い、同年7月22日早朝5時05分、フジヤマ病院にて、77歳で腸機能不全により逝去。

創価学会との軋轢

1977年(昭和52年)、日蓮正宗側は、当時、同宗最大の信徒組織であった創価学会が伝統教義を外れて独自の解釈(学会独自の勤行要典作成等)を打ち出したと主張。宗門と創価学会の間に軋轢が生じた。「52年路線」とも呼ばれる。日達が、自身が認可した本尊謹刻につき失念した為(これは、あくまでも学会側の見解。自身は「失念」していないようであった。現に、日達はその学会側の事前報告なしでの、本尊模刻(学会側は、それを「謹刻」と聖教新聞で発表)に対し、ひどく激怒し、その後、学会幹部が内密で、池田氏の日昇下附の御守り本尊を含め、8体前後の”無断模刻板曼荼羅”を本山に側近幹部が夜中、運送)。その事の重要性・内密行動をリークにより知った学会員からは、当時かなりの退転者が出た。日達は、それではあまりにも、日蓮正宗の信仰を純真に貫いてきた(特に学会員)が可哀そうだ、という自身の配慮から、学会本部の板曼荼羅等を容認したという話の方が、真実性は高い。その後、当該一連騒動の後、学会側も「おわび登山」を行っている。但し、聖教新聞紙面上では、そう掲載・発表されていない。これがさらに退転者増加に拍車を掛ける結果となった。

創価学会顧問弁護士などを経験した山崎正友と連携した妙観会(当時の日達派)所属の若手僧侶(後に正信会を結成)から突き上げを受けた。 [ 参考 ]http://norimaki.faithweb.com/mokoku1.htm 当時の創価学会会長であった池田大作は、事態打開の為に、全ての責を甘受し、日達に謝罪、1979年(昭和54年)5月3日、日達が「創価学会が日蓮正宗の信徒団体としての基本を、今後忠実に守ること」と述べ一切の収束を宣言した。その後会長を辞任したことで問題は沈静化と一時は思われた。テンプレート:See also

しかし山崎の影響を受けた正信会に所属する内弟子等の創価学会への攻撃が収まらず、宗門側はその間「院達」を数回出して粛正を訴えたが「正信覚醒運動」と称した脱会活動が続いた。その年に日達は後継法主を指名することなく急死。正信会は創価学会との協調路線を取る第67世法主日顕の法主としての地位を否定するに及び1980年から1984年にかけて順次破門処分となった。テンプレート:Main 正信会若手僧侶は、当初「法主絶対」「日顕上人には日達上人からの『血脈相承』がなかった(本来は、独断の意志・自己申告で公に「私が血脈を受けた」と宣言するものではなく、代々、立会人並びに番人の下、『血脈』の儀式が成り立ち、宗門では、ある一定の人数からの同意を得て、初めて次の法主として認められる、或いは、選挙により決定されることも日蓮正宗史上なされていた。故に、正信会の当時の若手僧侶の発言・突き上げも結局、「諸刃の剣」となった旨は、正信会も現在認めている。日達自身も逝去直前までその事に関して憂慮していたといわれる。

日達死去から11年後の1990年(平成2年)、宗門は学会が法主となった日顕の批判をしていると指摘。1991年(平成3年)11月28日に日蓮正宗は創価学会を破門とした。テンプレート:Main

エピソード

  • 法主就任後は創価学会との蜜月時代の人的、経済的な面での宗門発展という時期もあったが、後に創価学会自体の著しい勢力伸長による宗門本体の影響力低下、前述の妙信講破門、創価学会教義逸脱問題など本来一体の信仰集団ともいえる各組織間の抗争や宗門からの離反等に悩まされることとなった。昭和期の歴代貫主では、日蓮正宗の発展に貢献する一方、宗門側・学会側の双方から板挟みに合い、もっとも苦しんだ貫主である。又、日蓮・日興・日目の宗旨・化法の所謂、本来あるべき興門の「源流」へなんとか戻そうと、心労が絶えずつきまとった人物でもある。日達は「貫首とは先師から引き継いだ法を次に伝へ貫くためにある」と自ら述べている。
  • 性格は至って温厚・微笑みを常に絶えさず・日蓮日興門の化法には厳しくも、弟子僧侶には慈悲を以て常に接した。幾たびにも及ぶ、学会側・他法華講問題が勃発・浮上しても、末端の法華講信者には、水面下で収めるよう、苦悶した。その苦しみの胸中を公の場では決して明かさなかった。海外でも、今尚、日達上人を渇仰する信者、特に学会員(SGI)では未だ多い。
  • 弟子は離脱した僧侶も含めて580名余りに登る。主に○道、道○と名乗る例が多い。
  • 当職中に建立した寺院は創価学会による寄進を中心に280箇寺にのぼる。山号の付け方については地名や地域の山などを冠したものが多く見受けられる。

外部リンク

テンプレート:先代次代上人