藤原登任

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藤原 登任(ふじわら の なりとう、永延元年(987年) - 没年不詳)は、平安時代貴族藤原南家真作流常陸藤原師長の子。官位従四位下大和守

略歴

長和2年(1013年六位蔵人、のち主殿頭出雲守などを歴任する。また、『栄花物語』において、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っていたとの記載があり[1]、公任に家人として仕えていたとも考えられる。

永承5年(1050年)に陸奥守として下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、陸奥守であった登任は、秋田城介平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするが、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に、「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。

康平2年(1059年)3月29日出家

系譜

脚注

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参考文献

  • 『新編 日本古典文学全集 32 栄花物語 2』小学館、1995年

関連項目


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  1. 『栄花物語』巻第12 たまのむらぎく、巻第21 後くゐの大将