藤原元命

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藤原 元命(ふじわら の もとなが、生没年不詳)は平安時代中期の貴族藤原北家魚名流肥前守藤原経臣の子。官位従四位下尾張守

概要

当時、日本の地方行政は国司の筆頭官である受領に権力が集中し、百姓による受領に対する訴えや武力闘争(国司苛政上訴)が頻発していた。尾張国でも永延2年(988年)11月8日に朝廷に訴えが起こされたが、このとき太政官に提出された「尾張国郡司百姓等解文」(尾張国申文)は国司苛政上訴の詳細を示す史料として有名である。藤原元命はこの時の尾張守で、解文において非法を訴えられ、永祚元年(989年)2月5日朝議においてこの問題が審議され、同年4月5日の除目で守を停止された。しかしその後も長徳元年(995年)の吉田祭での上卿弁代役をつとめるなど官界に身を置き、また子の頼方は従五位下石見守、その子頼成は従五位上越前守と受領の家として続いている。

評価

「尾張国郡司百姓等解文」により、元命は私欲に基づき貧しい農民から苛烈な収奪を行う受領の代名詞とされ、また後世の説話の世界でもその評判は非常に悪い。「地蔵霊験記」という書物には「術つきて東寺門にて乞食しけるが、終いには餓死したりけり」などと書かれる。また尾張国の頭護山如意寺の由来の中でも、元命は地獄沢という小川に氷が張って渡れなかったので近くにあった卒塔婆を橋にして渡ったがその卒塔婆には地蔵菩薩が彫ってあって元命と郎党たちはそれを踏みつけて渡った。その後元命と従者は大病に煩い死ぬが地蔵菩薩が助けてくれて生き返った。しかし「元命朝臣は猶悪事止まずして国人に憎まれ、終わりをよくせざりしとぞ、(その郎党の)為家は罪業恐ろしくおもいて、六角二階の伽藍を営み……」と。

当時は同じような国司苛政上訴が数多くあったが、訴状の全文が伝わっているのは元命を訴える「尾張国郡司百姓等解文」だけであることから有名になった。またその訴状は当時の国守の任国支配、国の状況を読み取ることができる貴重な資料となっている。たとえば19条の「馬津の渡りの船無きに依り……」、25条の「購読師の衣料並びに僧尼等の毎年の布施の稲万2千余束の事」などはまさに地方行政として国司が果たすべきであった仕事が書かれている。その他、飢餓や火災などの際に窮民を救うための食料の出庫のような社会福祉も国衙の仕事なのにそれをしなかったので、それらの一部は郡司らが私財をもって補わざるを得なかったと訴えている。

しかし、伝わるのはその訴状だけであり元命がどう反論したのかは残っていないので実情がどうであったのかは解らない。当時の公家の日記でも、訴えられた31条のうち、不法とされたのは1か条だけといわれる。

当時は旧来の律令制の枠組みのままでは地方行政が成り立たなくなっていた「前期王朝国家」への転換点にあたる時期であり、ここでの「百姓」はいわゆる「農民」ではなく「名(みょう)」の耕作を請け負い、農業などの諸産業の大規模経営を展開し富を蓄積していた郡司・田堵負名層であって謂わば新興勢力の「農業経営者」である。あるいは農業に限らず「事業者」「納税者」と理解したほうがいいかもしれない。「農民」はその下で働いていた。一方で、朝廷は旧来の律令制の枠を越えて国守(受領)に大幅な裁量権を与えて地方の農業・産業の振興を図り、かつ税収の向上も目指した。元命が尾張国の国守となった花山天皇の時代も、元命の甥(一説に叔父)の藤原惟成や、藤原義懐もそのような政策を進めていた。

元命当時の尾張国もまさにそのような利害の対立のまっただ中であり、この状況は一人元命だけが直面したのではなく、その14年前の天延2年(974年)にも尾張国の国人は国司(守)を訴えて解任させており、20年後の寛弘5年(1008年)、長和5年(1016年)にも結果は不明ながら尾張国の国人は上訴を行っている。さらに、天慶2年(939年)には尾張国で国司(守)が襲撃・殺害されているなど、きわめて統治の難しい国であったらしい。尾張国とは直接関係ないものの、元命の代わりに任じられた新任の国司(守)がその除目(永祚元年4月5日)の前日に前任地の九州で家族を殺されたと称する男から斬りつけられて重傷を負うという事件が発生して話題となっている(小右記)。

他国の例では、長和元年(1012年)の加賀国の国司苛政上訴では守は反論の証拠と証人を揃えて臨んだが、その裁判に訴訟人の加賀国人が現れず不問となった。詳細な内容は残っていないものの、百姓から国司に対する訴が起こされた例はこの時期の公卿の日記などに多く記されている。

国司苛政というと国司側の一方的収奪で、弱い農民が苦しめられたとのイメージが抱かれやすいが、ときには上訴どころか、治安3年(1023年)12月には丹波藤原資業(すけなり)の京都中御門の屋敷を丹波国人騎兵十数人が焼討ちにしたこと(小右記)まである。

京の近国で、おそらくは京の法律の専門家とも連携しやすい尾張国だから訴訟で済んだものの、その前後の関東ではおそらく同様の国司と国人(負名経営者と郡司、在庁官人)との軋轢は戦乱にまでなっている。平将門天慶の乱、『今昔物語集』巻第二五第九「源頼信の朝臣、平忠恒を責めたる話」、そしてその後長く関東を疲弊させた平忠常の乱も国司と国人の抗争であり「百姓」がただの農民ではないことが見て取れる。そのような時代の流れの中でこの元命に対する「尾張国郡司百姓等解文」をとらえるのが現在の定説となっている。

なお、前述の藤原惟成は、永観2年(984年)に即位した花山天皇の側近として活躍し、花山天皇が精力的に発布した諸政策の立案に深く参与していたこと、花山天皇の諸政策は荘園整理令や武装禁止令、物価統制令、地方行政改革などから構成される「斬新な内容」を持った花山新制とし、その花山新制は摂関家や有力寺社(院宮王臣家)と結びついていた当時の郡司・田堵負名層と対立したこと。その花山天皇が摂関家の計略によって寛和2年(986年)に退位し、摂関家が再び政権を握る余波を受けて、花山新制の方針に沿って行政を遂行した元命も尾張苛政を名目に罷免されたとする見方もある。さらに解文自体も和風の四六駢儷体という高い文章作成能力を要する漢文体を採っており、解文そのものは尾張百姓の意向を受けた京都の文人が作成したとする見方もある。

系譜

参考文献

関連項目

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