藤原義懐

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 義懐(ふじわら の よしちか)は平安時代中期の公卿摂政太政大臣藤原伊尹の五男。

花山天皇の治世にその外叔父として権勢を奮うが、天皇の出家・退位に従い出家し、政界を引退した。

生涯

天禄3年(972年)、16歳の時に従五位下に叙せられるが、同年に父・伊尹が急死し、2年後の天延2年(974年)には二人の兄(惟賢義孝)が同日に病死するという災難に見舞われ、若年時は不遇の時代を過ごした。ただ、同母姉の冷泉天皇女御懐子が生んだ皇太子師貞親王がおり、その数少ない外戚として、天元2年(979年)には春宮亮に任ぜられた。

永観2年(984年)正月従四位上に叙せられた。同年8月に師貞親王が即位(花山天皇)すると、蔵人頭に抜擢され、その年のうちに正三位に昇叙される。翌寛和元年(985年)には従二位・権中納言に急速に昇進した。権中納言の官職自体は公卿の中では高くはなく、直ちに摂政関白に至る地位ではないものの、かつては叔父の兼通が天皇の伯父の資格で権中納言から一気に内覧内大臣に昇進してそのまま関白に就任した例もあり、義懐もまた次の大臣・関白の有力候補の一人になった。

ところが、天皇と義懐、そして父の代からの側近で天皇の乳兄弟でもある藤原惟成が中心となって推進した荘園整理令などの新制の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政策は関白の藤原頼忠らとの確執を招いた。さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。そのため、宮中は義懐・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。

さらに混乱に拍車を掛けたのが天皇の女性問題であり、藤原為光の娘・忯子[1]に心動かされた天皇は、忯子を女御にする事を望んだ。また義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。だが、天皇の寵愛のし過ぎが忯子に無理を強いて結果的には病死させる事となった。これにショックを受けた天皇は出家して忯子の供養をしたいと言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。

しかし、寛和2年(986年6月23日、花山天皇は深夜藤原道兼に促されて宮中を後にした。その後三種の神器が兄の道隆や異母弟道綱らの手により皇太子のもとに運ばれた。全て道兼兄弟の父親である兼家の策略だったと伝えられている。義懐が花山天皇の「失踪」を知ったのはその後のことである。義懐と惟成は必死に天皇の居所の捜索にあたった。だが、義懐が元慶寺(花山寺)にて天皇を発見した時には天皇は既に出家を済ませていたのである。自分達の政治的敗北を悟った義懐は惟成とともにその場で出家した。 『枕草子』の「小白河といふ所は」の段には小白河第で6月18日から21日に行われた法華八講に出席していた出家する数日前の義懐の事が書かれている。

法名は悟真、受戒後は寂真。僧侶となった義懐は京都の外れにある飯室に籠った。出家後、僅か数年で違う女性に手を出したと言われる花山法皇とは対照的に、藤原道長ら旧知の人達との交流は残しながらも、その残り人生のほとんどを仏門の修行に費やした。その死を聞いた人々は「義懐は極楽往生を遂げたに違いない」と語り合ったと言われている。

なお、息子2人(尋円・延円)が義懐と共に出家、続いて成房長保2年(1000年)、伊成寛弘6年(1009年)に出家と、義懐の息子は若くして多くが出家の道をたどった。

官歴

  • 天禄3年(972年)正月7日:従五位下(大臣息)
  • 天延2年(974年)10月11日:侍従
  • 天延4年(976年)正月7日:従五位上(臨時) 4月18日:右兵衛権佐
  • 貞元元年(976年)11月14日:昇殿
  • 貞元2年(977年)正月7日:正五位下(春宮御給)
  • 貞元3年(978年)2月2日:右近衛少将
  • 天元2年(979年)正月29日:美作権守 7月1日:春宮亮 10月10日:昇殿 11月:禁色
  • 天元5年(982年)正月30日:備前権守
  • 永観2年(984年)正月7日:従四位上(亮功) 8月20日:侍従 8月27日:蔵人頭(本宮亮。依踐祚也)・春宮昇殿 9月4日:禁色 9月24日:右近衛中将(加外)10月14日:従三位(御即位次。先坊亮労。越階) 右中将如元 10月17日:正三位(女叙位次。臨時。外舅)
  • 永観3年(985年)正月23日:丹波権守
  • 寛和元年(985年)9月14日:参議(右中将丹波権守如元) 11月22日:従二位(主基国司)12月27日:権中納言
  • 寛和2年(986年)6月24日:出家(依天皇御出家也)法名悟真。受戒後寂真。  

系譜

脚注

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  1. 忯はりっしんべんに氏