芹沢鴨

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芹沢 鴨(せりざわ かも、芹澤鴨、文政10年(1827年)? - 文久3年9月16日1863年10月28日)もしくは9月18日10月30日))は、幕末水戸藩浪士、新選組壬生浪士)の初代筆頭局長。別名は下村嗣司は光幹。本姓桓武平氏家系常陸平氏大掾氏一族である吉田氏族鹿島氏の当主である鹿島成幹の流れを汲むという芹沢氏。父は常陸国行方郡玉造村芹沢の郷士・芹沢外記貞幹で、鴨(光幹)はその3男である。

生涯

出自

中世初期に興起した常陸国芹沢村(現茨城県行方市芹沢)の豪族、芹沢氏から発祥し、関ヶ原の戦功により幕臣となり、のちに水戸藩上席郷士士分)となった芹沢家の当主・貞幹の三男として生まれた。幼名は玄太。(竜寿は誤り)のちに松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官である下村祐斎の婿養子となり、下村嗣司と称した(継司、嗣次とも)。ただし、出自、出生年には諸説ある。たとえば島田魁の『英名録』には「芹沢又右衛門子」とあり、分家の出身ともいわれるが、水戸藩士の系譜を網羅する『水府系纂』に記載される芹沢又右衛門家の記述に該当する文言は見当たらない。なお、芹沢又右衛門家も祖先は芹沢外記家と同じ中世豪族の芹沢氏である。

武術は戸賀崎熊太郎神道無念流剣術を学び(諸説あり)、免許皆伝を受け師範代を務めた。平間重助は彼の門人である。

天狗党

嗣司は尊王攘夷思想を貫徹するため、松井村を離れ、万延元年(1860年)暮れ、天狗党の前身である玉造組に参加した。玉造村(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜攘夷を決行するため石岡潮来近辺の豪商、豪農を回り、資金集めに奔走した。このとき、玉造組では「進思尽忠」「無二無三日本魂」と記載された幟を掲げていた。嗣司はこの頃から後世トレードマークとされた鉄扇を使用していた記録が残る(「伊能家文書」)。

しかし、文久元年(1861年)2月、水戸藩領だけでなく天領でも資金集めをしたことや天狗党を詐称して攘夷を口実とする恐喝が横行したことなどから、幕府から水戸藩に攘夷論者の活動の抑圧が指示され、水戸藩の方針は転換した。天狗党に近い藩首脳が更迭され、代わって反対派の諸生党が台頭すると、玉造組は即時に弾圧された。4月には嗣司も佐原方面での献金強要の罪で捕縛され入獄した(「鈴木大日記」)。処刑を待つ身だったが、文久2年(1862年)、尊攘派の主導する朝廷は幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら(激派)が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。こうして再度天狗党が藩の政権を奪取したことから、12月、安政の大獄に関わった政治犯の釈放を目的に大赦令が出され、出獄することを許された。この時、名を芹沢鴨に改めたという。

壬生浪士組筆頭局長

文久3年(1863年)2月5日、清河八郎が発案し江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加し、六番組小頭に任命された。浪士組には、のちに壬生浪士組(新選組)を結成する。新見錦平山五郎野口健司、そして江戸の剣術道場試衛館近藤勇土方歳三沖田総司山南敬助らも加わって、京都まで行動をともにする。

23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。この時に残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄根岸友山らも合流する。

3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)このとき「壬生浪士組」を名乗る。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。

ただ、預かりとはなっていたが、当初は給金の支給がなかったため、4月になって芹沢・近藤らは大坂に下って商家から資金の提供を受けた。しかし、このような恐喝まがいの資金集めは会津藩の体面に関わることから、のちに藩より手当が支給された。

6月3日、芹沢・近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため大坂へ下った。途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことは収まったが、大坂町奉行所与力内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されている(内山を暗殺した者については異説もある)。

同月、水口藩の公用方が壬生浪士組は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。詫び証文は担当者の独断で書かれたものであったため、ことの露見を恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は詫び証文を返すこととなり、嶋原角屋で宴会が開かれた。しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。

八月十八日の政変に際して御所の警備のために近藤・新見とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士組を知らなかったためを構えて通そうとしなかった。「通せ」「通さぬ」と双方が怒鳴りあう中、芹沢が哄笑しながら進み出て来た。会津藩兵が槍を突きつけると、芹沢は鉄扇でその槍先を悠々と煽いで笑う。会津藩の軍奉行が駆けつけて壬生浪士組を通してやり、芹沢は悠然と門を通った。人々は芹沢の剛胆さに驚いたという(『新選組遺聞』)。

この出動を機に会津藩は壬生浪士組に新選組の隊名を与えた。

暗殺

文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる乱暴を行っている[1]

9月13日、近藤らは芹沢派の新見錦(この時は副長に降格)に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた[1]。翌日、吉田屋での事件が問題となり、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は近藤・土方・山南らに芹沢の処置を密命する。乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸学を学び、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れを汲む芹沢を危険視したという説もある。 また、同13日に芹沢は有栖川宮家を訪れ、仕官を申し入れたことが有栖川宮家日記の記載により明らかになっており、これが会津藩を刺激した可能性も指摘されている。

9月16日、(「川瀬家文書」による。『新選組遺聞』などでは18日)新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎・平間重助・土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。

大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけ、芹沢を殺すと刺客たちは立ち去った。テンプレート:要出典範囲テンプレート:誰

平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。

『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻・まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の『浪士文久報国記事』によると暗殺は土方歳三・沖田総司・藤堂平助御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方・沖田・山南・原田になっている。

事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は事件の一連の経緯を記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている。

芹沢の墓所は京都市中京区壬生寺にある。

暗殺日についての考察

芹沢鴨の暗殺日については墓碑に倣い18日が通説となっていた。しかし明治期に発行された「七年史」や「川瀬家文書」等16日を暗殺日とする史料もあり、さらに16日は雨が降っていたこともあり、(18日は晴れ)現時点においてはほぼ16日で決定している。両日の典拠は以下の通りである。

  • 16日説
    • 七年史(北原雅長:啓成社ほか)
    • 川瀬家文書(川瀬教文:茨城県立歴史館所蔵)
  • 18日説
    • 壬生寺建立の墓碑
    • 新撰組顛末記(永倉新八:新人物往来社版)
    • 新選組遺聞(子母沢寛:中央公論社)

人物

  • 芹沢の人となりについては、子母澤寛の“新選組三部作”(『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』。いずれも中央公論新社から文庫版が出ている)に詳しいが、いずれもかなりの創作が入っているとされ史料的な正確さには非常に問題があることに留意する必要がある。
    • 芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかった。豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士、芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていた。酒が好きで、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかった。
    • 小説やテレビドラマでは手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれることが多いが、会津藩主松平容保へ嘆願に行く時に八木家から紋付を借りることになり、全員同じ家紋になってしまうと八木源之丞が心配すると(公式の場ではかなり滑稽)、芹沢はまったく意に介せず笑っていたり、八木家から借りた火鉢をこっそり返しに来て、火鉢に刀傷があったので問い質したら(隊士たちは酔って八木家の家財を手当たり次第に試し切りの材料にしていた)、「俺だ、俺だ」と頭をかいて逃げてしまうなど気さくな一面もあった。また、八木家の幼い娘が亡くなったときには、芹沢は近藤と帳場に立って進んで葬儀を手伝っており、暇潰しに面白い絵を子供たちに書いてやるなど好かれていたという。
  • 尊王攘夷の念が強く、北野天満宮に「雪霜に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う梅が香」という歌を記した額を献じた。
  • 新選組にまつわる物語として芹沢が起こしたとされる「本庄かがり火事件」というのがある。浪士組時代に、京都へ向けて出発した一行が本庄宿で宿泊する際、宿割の近藤勇が芹沢の宿を取り忘れたことに端を発し、大篝火を炊くという話だが、これは近藤の宿割の辞令が14日付ということが判明し、創作の可能性が指摘されている(分部家文書~『新選組読本隊士外伝所収』)。
  • 芹沢の生家は江戸期以降、代々医業を続けており、現在の子孫も茨城県石岡市で診療所を開いている。現在も家伝薬「筋渡し」が処方されている。
  • 詳細不明だが、田尻佐が壬生寺を訪れた際、当時の芹沢を知る老婆が居り、芹沢の墓参りに来たことを告げると大変喜んだという。(「史談会速記録」)。

参考文献

出典

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関連項目

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  1. 1.0 1.1 永倉新八『浪士文久報国記事』