角屋

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角屋(すみや)は、もと京都島原花街揚屋である。

変遷

天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が角屋の営業を始める。慶長7年(1602年)、柳町は突然の移転を強いられ、角屋も六条三筋町へ移転を余儀なくされた。

更に寛永18年(1641年)、再度柳町は移転となり、角屋は二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。尚、六条三筋町の所在地(新町五条下ル)は現在も角屋が所有している[1]

明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。昭和60年(1985年)まで「松の間」を宴会に使用。

昭和27年(1952年)、島原が開かれて以来現存する唯一の揚屋の遺構として国の重要文化財に指定された(ただし「松の間」のみは大正末期、火事により焼失してしまい、指定されず、2012年に登録有形文化財に登録)。

平成元年(1989年)より1日30人限定で内部を公開していた[2]が、更に平成10年(1998年)4月より「角屋もてなしの文化美術館」として開館された。平成19年(2007年)現在家名は十四代目に継承されており、当代が館長を勤めている。現在一般公開は1階部分のみ。損傷部分の保存を考え、2階座敷見学には事前予約が必要となっている。所蔵品は約1万1千点にのぼる。

隣接する山陰本線高架部分の騒音を巡り、JR西日本との間で長らく係争状態にあったが、平成20年(2008年)に、コンクリート製の高架に砂利を入れる等の対策をとることで騒音の軽減を図るという内容で和解に達した。

江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり当時の角屋当主(七代目、俳名徳屋)は与謝蕪村を師として招いている。その蕪村がここに残した「紅白梅図」は国の重要文化財として当美術館に展示されている。 他、天明年間前後に制作された円山応挙石田幽汀などの襖絵も残っている。

幕末には久坂玄瑞西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていた。

また、新選組もここでの遊興を楽しんだ。特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている[3]。また、芹沢が殺害される直前にここで酒宴を開いている。

中には名物の「臥龍松」という枝の長い松が生えていたが枯れてしまい、現在は2代目にあたる。

現役時代を通して「揚屋」「お茶屋」であったため、太夫や芸妓を抱えていた事はない。しかし、現在角屋春秋会(角屋保存を支援する人々の会)会員向けの「角屋鑑賞会」(年2回)の開催時のみ江戸時代後期の太夫の衣装を着けた(現代の太夫の姿とは若干異なる)「八千代太夫」と呼ばれる女性がお茶のお点前や舞を披露している。

ファイル:角屋.jpg
公益財団法人 角屋保存会
ファイル:角屋案内版.JPG
島原角屋の案内板

文化財

重要文化財

  • 角屋 1棟
木造2階建て。揚屋町の通りに東面して建つ。建物は、通りに面する表棟と、中庭を挟んで建つ奥棟からなり、両者は玄関部分で接続して1棟となっている。表棟は格子造で間口31.5メートルに達する。建立年代は17世紀末とみられるが、天明6年(1786年)に隣地を購入して屋敷地を南側へ広げており、2階の「扇の間」などはこの時の増築である。他にも増築・改造があり、間取りは複雑になっている。1階中央やや南寄りに入口を設け、その左手(南)には男部屋、右手(北)には仲居部屋、女部屋などがあり、最も北には天井を網代とした「網代の間」がある。入口を入ると、狭い中庭を介して正面に内玄関、右手に玄関がある。内玄関を入った奥棟部分の1階には、通り土間、板の間、台所、帳場、茶室などがある。2階に上がると、表棟には北から南へ「緞子(どんす)の間」、「翠簾口(みすぐち)の間」、「翠簾の間」、「扇の間」があり、奥棟には「檜垣の間」、装飾に青貝を用いた「青貝の間」などがあり、「青貝の間」には露台(バルコニー)が付属する。各部屋は装飾や意匠に変化をつけ、数少ない揚屋建築の遺例として、文化的価値が高く評価されている。[4]
角屋の建物1棟は1952年3月29日に国の重要文化財建造物と指定されており、現在は公益財団法人角屋保存会が所有されている。1980年には宅地2,483平方メートルが重要文化財に追加指定されている。他に、曲木亭、茶室、待合、東奥蔵、西奥蔵、台所蔵、棟札5枚、板絵図1枚、古図2枚、屋舗売渡状1枚が重要文化財の「附」(つけたり)として指定されている。

 建物には揚屋建築の特徴を有するものであり、いわゆる宴会場・劇場用途の建造物であった。江戸時代には文化人がここに集まることがあり、角屋が文化的な意義が大きいと見られている。室内装飾には、応挙、蕪村、岸駒の作品がある。  角屋は幕末の政治の場所でもあった。今は角屋の外には「長州藩士久坂瑞の密議の角屋」、「新撰組刀傷の角屋」の石碑が建てられている。 

登録有形文化財

  • 松の間

脚注

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注釈

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参照

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参考文献

  • 鈴木嘉吉監修、宮澤智士執筆『日本の民家』(万有ガイドシリーズ30)、小学館、1985

関連項目

外部リンク

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  1. 中川徳右衛門『角屋案内記』、長松株式会社発行、1988年4月22日。出典は『一目千軒』天承17年(1594年)で、柳町についての記載があると明記されている。
  2. 京都新聞「京都・より道スポット」、1999年2月2日。電子版
  3. 見学者用パンフレット『角屋』公益財団法人角屋保存会発行。
  4. 建物解説は(宮澤、1985)、pp.156 - 161による。