花菱アチャコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年7月15日 (火) 07:48時点におけるたのひろし (トーク)による版 (弟子など)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox お笑い芸人 花菱アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年7月10日 - 1974年7月25日)は、大正昭和期の漫才師俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県出身。

来歴

福井県勝山市の生まれ、生家は法沢寺というお寺であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。その後奉公などに出ていたが遊芸に興味を持ち1913年に15歳で新派山田九州男山田五十鈴の父)の一座に入り東明幸四郎と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年神戸の「鬼笑会」一座に入り、漫才に転向し「花菱アチャコ」を名乗り菅原家千代丸と組む。1919年に一度だけ横山エンタツと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。

1925年吉本興業に入社し、浮世亭夢丸千歳家今男とコンビを組む。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年中耳炎にかかり入院、その間にエンタツは林正之助等との相談で上でコンビを解消する。エンタツは杉浦エノスケと組む。退院後は舞台では千歳家今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。

第二次世界大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際(アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていたが、林正之助に一喝されてそれを新興に返したという)、アチャコは吉本から「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一筆取っていたため、唯一の例外として吉本興業との専属契約継続を認められた。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。

戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。

1952年長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』も人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」や「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡した。

1963年にNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)において、エンタツと久しぶりにコンビを組んで漫才を披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。

1974年7月25日直腸癌のため死去。テンプレート:没年齢戒名は阿茶好院花徳朗法大居士。

芸名の「花菱」は、生家の家紋が由来である。「アチャコ」は、「鬼笑会」に所属してまだ無名だった頃、幕切れに先輩役者の「アッ!」の合図で「チョン!」と拍子木を打つ際に上手くいかず、先輩役者からつけられたあだ名「アチョンの子」が転じたものである。「コ」の字がつくために、名乗り始めたころはよく女性と間違われた。

弟子など

弟子には、粋曲漫談のれん太郎、漫談の鶴乃一声、三五郎、岡八朗、石川大介(付き人)、石川寿子(付き人)、西川花助(付き人)などがいる。

かつて、実質の孫弟子(岡八朗の弟子)「オール阪神・巨人」に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせるという話があったが、オール阪神・巨人側が「おそれ多い」と断った。

孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はレゲエミュージシャンで、「アチャコ一座」というバンドを結成して活動している。また、大阪市中央区高麗橋に、1952年からアチャコの妻が経営していた店は現在(2014年)はアチャマゴがたこ焼き屋「ACHAKO」として経営中。

著書

  • 『遊芸稼人 アチャコ泣き笑い半生記』アート出版 1970

関連書籍

  • 藤本義一『大いなる笑魂』文芸春秋 1977 のち文庫 

花菱アチャコを演じた俳優

外部リンク

テンプレート:Owarai-stub