秋山虎繁

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秋山 虎繁晴近信友(あきやま とらしげ/はるちか/のぶとも)は、戦国時代武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。

諱は『甲斐国志』による「信友」や、近世の軍記物に拠る春近、晴近、信近とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は「虎繁」であることが指摘されている[1]

生涯

大永7年(1527年)、武田氏の同族で甲斐源氏の流れを汲む秋山信任の息子として生まれた。武田氏の当主が信虎から晴信へ交替した天文10年(1541年)に元服したという。

『甲陽軍鑑』に拠れば、天文11年(1542年)の諏訪頼重攻めで初陣した。この頃は駒井高白斎の与力であったとも寄子であったとも言われる。

天文16年(1547年)の信濃伊那郡福与城攻めで一番乗りの戦功を挙げた上、敵将の藤沢頼親を捕縛するという大手柄により、騎馬50騎の侍大将に任じられたという。さらに木曽福島城攻めで戦功を挙げたため、伊奈郡代に抜擢され、相備えと合わせ250騎持の大将となったという。

以後も各地を転戦し、高遠城飯田城大島城の城代を務め、信濃伊奈方面の守備を任された。年未詳8月18日武田晴信書状は室住虎光(豊後守)とともに「秋山善右衛門尉」に宛てられており、これは虎繁を指すと考えられている[2]。同文書は室住虎光が永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死していることから永禄初年頃と推定され[3]、室住とともに大島城在城が確認される。

『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄10年(1567年)、信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でひとりだけ信長と同盟を結ぶ利を説き、諸将を同意させたという。

『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄11年(1568年)には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の四女・松姫との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴いている。このとき、信長は虎繁を手厚く歓待したと言われている。

元亀3年(1572年)10月、武田信玄は西上作戦を開始する。『当代記』によると、虎繁は山県昌景とともに別働隊を率いて三河に攻め入った。三河の各城を陥落させた後信玄本隊と合流している。その後は信玄とともに三方ヶ原の戦いに参加した。

元亀4年(1573年)3月6日、信玄の命で東美濃に向かい、前年に武田方に寝返っていた岩村城に入城した。この時前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたとされるが、これは近年誤りであることが指摘されている[4]。また遠山家の養子として送られていた信長の5男・御坊丸(後の織田勝長)を保護して甲斐に送っている。

元亀4年(1573年)の信玄の死後は勝頼に仕え、天正2年(1574年)に勝頼が東美濃に攻め入る際にはこれに協力し、信玄時代と変わらず、武田氏の東美濃方面(対織田氏)の最前線を戦っていた。しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が敗れるなど、武田方が劣勢になるに従い、岩村城は徐々に孤立する。織田信忠の軍が数度来襲してきたが、なお辛うじて持ちこたえていた。

『信長公記』によると、天正3年(1575年)11月、織田信長は嫡男の信忠に命じ、大軍勢を率いて岩村城を包囲する。救援の見込みが無いと判断した虎繁は和議を申し出て開城するが、大島・座光寺と3人で礼を述べに行ったところ捕らえられ(信長の命による)、長良川で磔に処された[5]。享年49。

子孫

譜代大名水野氏に仕えた山形秋山家は、同家に伝わる宝永6年(1704年)の先祖書や『甲斐国志』に拠れば秋山伯耆守(虎繁)の子孫を称し、伯耆守の子民部右衛門(『国志』では式部右衛門)の孫秋山平太夫が水野家に仕えたとしている。

脚注

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関連作品

小説
  • 鬼丸 智彦『城将―武田の忠臣・秋山信友の生涯』山梨日日新聞社出版部 (2005年)
テレビドラマ

参考文献

  • 黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」 『戦国遺文月報』武田氏編第2巻、2002年
  • 平山優「秋山虎繁」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年

関連項目

  • 黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」 『戦国遺文月報』武田氏編第2巻、2002、平山優「秋山虎繁」『新編武田信玄のすべて』2008など。
  • 平山(2002)、p.55
  • 平山(2002)、p.55
  • 平山(2009)、p.168
  • 3人ではなく妻のおつやの方と共に行ったという説、ただの磔ではなく逆さ磔だという説もある。ここでは信長公記の記録によっている。