磯野員昌

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磯野 員昌(いその かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井氏の家臣。近江佐和山城主。

生涯

浅井氏家臣時代

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小谷城下の磯野屋敷跡(滋賀県長浜市)

磯野氏は代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で浅井氏の配下に加わる。員昌の父・員宗は磯野氏の一族筋から養子として佐和山城を本拠に持つ磯野員吉に迎えられている。主家筋の磯野山城を本拠に持つ磯野氏は浅井亮政によって滅ぼされている。

父の死後、叔父の員清家督を継ぎ、その跡を員昌が継いだ。員昌は佐和山城を本拠とし、武勇に長けたことから対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになる。

元亀元年(1570年6月28日姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の稲葉一鉄氏家卜全安藤守就らが駆け付け、その後、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退した。 この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残るが、江戸時代元禄期の『浅井三代記』が初出のため疑問視されている。

そもそも員昌は姉川の遥か南に位置する佐和山城主であり、軍勢を率いて姉川北側まで移動することは困難だと思われる。 また、合戦後に横山城が開城し織田方となったため、軍勢を率いて佐和山城に戻ることも困難だと思われる。 船で琵琶湖を移動したという記録も無いようだ。 従って、員昌は姉川の合戦に参加していない可能性が高い。

信長へ降る

姉川の戦い後、佐和山城は直ちに織田方に包囲された。陸路では横山城を拠点とした織田軍により分断され、さらに羽柴秀吉による「員昌に翻意あり」という流言を信じた浅井側が、佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめてしまう(秀吉の流言は、元々磯野氏自体が浅井氏に屈服する形で仕えるようになったことや、員昌自身が独立心の強い性格であったという背景を利用した、巧みなものであったといえる)。

そのため、員昌は翌元亀2年(1571年2月24日、佐和山城を攻撃された際に信長に降伏した。その後は信長に取り立てられ、近江高島郡を与えられるという破格の待遇を得て、越前一向一揆の鎮圧、杉谷善住坊の捕縛などに従事した。

ところが天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔し、領地の高島郡は信長の甥・津田信澄に与えられた。信長の意図は不明であるが、一説には信澄は員昌の養子となっており、信長は家督を譲るよう迫ったが拒まれたためともいう。出奔後の員昌についての詳細は不明で、一説には本能寺の変後に高島郡に戻り、帰農して天正18年(1590年)に死去した伝承もあるが、確実なものではない。

息子(磯野行信)以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(高虎は1570年代中盤、員昌に仕えていた)に仕えて家名を存続させた。孫の磯野行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦い増田盛次を討ち取る功績を上げている。娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人小堀政一を生んでいる。

関連項目