横浜市立横浜商業高等学校

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横浜市立横浜商業高等学校(よこはましりつ よこはましょうぎょうこうとうがっこう)は神奈川県横浜市南区にある、全日制の商業科および国際学科と別科(理容科・美容科)を持つ市立高等学校

概要

校章および学生帽、野球部のユニフォームのマークからY校(ワイこう)という愛称で親しまれている。

現存する神奈川県内の公立高校としては、最も古い歴史を持つ[1]。 校歌は、森鴎外(森林太郎)によって作詞された。

同窓会は進交会(しんこうかい)。同会は、Y校と横浜市立大学(市大)、および市大の前身である横浜市立横浜商業専門学校(Y専)の3校の卒業生を会員とする。ただし別科は独立した同窓会組織となっている。

なお、定時制横浜市立港高等学校横浜市立横浜工業高等学校と発展的に統合される形で横浜市立横浜総合高等学校に移行、2005年平成17年)3月をもって閉課程となった。

沿革

部活動

ファイル:High school baseball in Yokohama Stadium Japan 2007-6.jpg
全国高等学校野球選手権神奈川県大会・校歌斉唱の様子(2007年7月21日)
ファイル:Yokohama Stadium 2007 -1.jpg
2007年全国高等学校野球選手権神奈川県大会 地区予選・柏木学園との3回戦勝利後の横浜スタジアム・スコアボード

硬式野球部

野球部は1896年明治29年)に創部された。創部のきっかけとなったのは同年5月23日6月5日に行われた、旧制一高(現在の東京大学)野球部とYC&ACとの対戦試合である。この試合で旧制一高野球部はそれぞれ29対4、32対9で大勝するが、Y校関係者はこの試合の応援に駆けつけ、勝利した一高野球部員と懇意になり、応援のお礼として一高側はボールとバットを贈り、その後の野球部創立となった。創部時のコーチは一高投手の青井鉞男であった。

Y校野球部は創部以来、関東における高等中学校野球 - 高校野球の牽引役となった。1923年大正12年)夏、神奈川県の学校として初めて甲子園(第9回全国中等学校優勝野球大会。現全国高等学校野球選手権大会)に出場した。以後、春(選抜高等学校野球大会)9回、夏7回、甲子園に出場している。1983年(昭和58年)のには、準優勝した。神奈川県の公立高校の夏の準優勝はこれ以降2011年現在未達成である。

横浜高等学校との試合は「YY決戦」「YY戦」と呼ばれ親しまれている。横浜スタジアムでの試合時には、横浜商のスコアボードのチーム名表記は「Y」となる(Y校は公立、横浜高校は私立である)。また、TVKテレビの高校野球中継でのチーム名表記も、90年代後半まで一貫して「Y」であった。

野球部の部員数は県下最大ではあるが、近年は初戦で敗退したり、復活したと思えば慶應に大敗を喫するなど、かつての強さに陰りが見え始めている。現在、夏の甲子園は1990年の第72回大会が最後の出場となっており、これが県下の公立高校硬式野球部にとっても最後となっている(県立高校にいたっては、1951年出場神奈川県立希望ヶ丘高等学校が最後となっている)。 春の甲子園も、1997年の第69回大会以来出場していない。(これが2011年現在神奈川県の公立高校最後の選抜出場となっている) ちなみに、1990年(平成2年)第72回大会の一回戦の対戦校は、Y校の校歌を作詞した森鴎外の生誕地である島根県津和野町にある島根県立津和野高等学校(5-1でY校の勝利)であった。

その他の運動部

  • 長い花園の高校ラグビーの歴史の中で、神奈川県の公立高校として出場したのは1947年の本校と、神奈川県立相模台工業高等学校の2校であり、1995年の相模台の出場以来2010年現在公立高校の花園出場はない。

※なお、現在ラグビー部は存在しない。

  • ボート部は現在も大岡川で練習を続けている。

交通

著名な関係者

出身者

OB間の結束が強い。実業系の高校であるが4年制大学を始めとした進学者の割合が比較的高い。

教職員

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 藩校時代を含めると神奈川県立小田原高等学校が最古である
  2. 神奈川県立横浜第一中学校(神奈川県立希望ヶ丘高等学校)との体育対抗戦。1969年まで行われ、通算成績は本校の18勝24敗1分であった。