桂小南

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桂 小南(かつら こなん)は、落語名跡。現在は空き名跡となっている。

初代・2代目ともに東京上方落語を演じた。本項では、初代について説明する。

初代

初代 桂小南(かつらこなん、1880年5月24日 - 1947年11月21日)は、本名: 岩田秀吉。テンプレート:没年齢

東京下谷の生まれ。幼少時に大阪に移り、11歳の時、2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門。前座名として小南を名乗った、1907年に2ヶ月だけ故あって桂小南光(本来初代)を名乗ったのを例外に生涯改名をしなかった。18歳の若さで真打昇進。1905年、師・南光の後を追い上京し、三遊派に所属。しかし、同年に始まった第一次落語研究会には参加せず、別行動を取っている。

東京で上方落語はなかなか理解されなかったため、2世曽呂利新左衛門が曲書きで喝采を得たのをヒントに、「松づくし」(2代目笑福亭松鶴の項を参照)や「電気踊り」といったケレンで名を売ることにした。「電気踊り」とは、豆電球を体中に巻きつけて常磐津の『奴凧』を踊るのだが、舞台上に陰陽の電極板が仕掛けてあり、これを裏に金属板の入った足袋で踏むと、体中の電球が点滅する、というもの。また、背後の幕に昇降機が隠してあり、これに背中の金具を引っ掛けると、天井へ向かって上がってゆく、という仕掛けもあった。感電の危険性があり、命がけの芸でもあった。この「電気踊り」には、他にも『玉兎』『勢獅子』『夜這星』などがあり、大人気のため「八丁荒らし」として同業者に恐れられた。また、高座で映画の手法を持ち込み、ネタの前半部分は口演し、後半部分は撮影したフイルムを投影する手法を用いたりもした。

後に3代目三遊亭圓橘月の家圓鏡(後の3代目三遊亭圓遊)らと三遊分派を設立。しかし、座組に変化がなく、次第に客に飽きられ、同業者の信用も失った。遂には多額の借金を背負い、地方巡業に出たが、失敗の連続で帰阪。しかし、その人気から見捨てられることはなく、再び上京し、睦会から東京落語協会へ移るなど、所属を変えながらも、最後まで上方落語を演じ続けた。

3代目桂米朝は、東京で下宿生活を送っていた際、初代小南の追っかけをしており、その際の見聞を書き留めている。

  • 「小南の芝居噺は私も大分見ている。もはや老人ではあったが、何とも言えぬ柔らかさと華やかな雰囲気を持った人で、かつて寄席のスター的存在であったことは、げに尤も…とうなずけるものがあった。...長い顔で大きな眼で、ニコリと笑うと実に愛嬌があった。ゆっくりとした大間なしゃべりで関西弁でも東京人にもよく解った。...初代桂小南はたしかに巧い人であった。ひと口に言って、実に間の良い人であったと言える。」 (『上方落語ノート』pp.104-108)
  • 「私はこの人を追いかけたおかげで、短時日にいろんなものを学べて幸せであった。」 (『続・上方落語ノート』p.111)

大西信行は、戦時中に小沢昭一と友人の3人で神楽坂の寄席に行き、『児雷也』を見ている。ネタの最中に空襲警報が鳴り、3人は慌てて逃げたという[1]

また、ある時、さる華族子爵であったという)出身の未亡人と、亡夫と似ているという理由で深い仲となり、一人娘を生した。汽車で移動する時などは、駅長が見送りに来るため、周囲の者の驚きを誘ったという。

当時珍しかった電話をいち早く自宅に設け、電話番号の下谷の一八二四に、得意の『鏡山』から思い付いた「いはふし」という振り仮名を付けた名刺を作ったりなど、ハイカラな面を持つ人でもあった。

墓所は谷中の興禅寺。

弟子には南馬(後の7代目都家歌六)、桂一奴8代目桂文楽らがいる。

エピソード

  • 初代小南の弟子に8代目文楽がおり、彼が持つ「右女助」の名跡を引き継ぐべく文楽と交渉に及んだ山遊亭金太郎(のちの2代目桂小南)が、逆に文楽に見込まれ、自身の師匠の名前「小南」が譲られることとなった。

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 2008年11月16日米朝よもやま噺』(ABCラジオ

出典

  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年)
  • 『続・上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1985年)
  • 『落語案内 楽屋への招待』(桂小南著、立風書房、1982年)