曽呂利新左衛門

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曽呂利 新左衛門(そろり しんざえもん)は、落語家名跡。2代目の死後は空き名跡となっている。

初代(先代)曽呂利 新左衛門

豊臣秀吉御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。

茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌にも通じていたという(『茶人系全集』)。『時慶卿記』に曽呂利が豊臣秀次の茶会に出席した記述がみられるなど、『雨窓閑話』『半日閑話』ほか江戸時代の書物に記録がある。本名は杉森彦右衛門で、坂内宗拾と名乗ったともいう。

大阪府堺市市之町東には新左衛門の屋敷跡の碑が建てられており、堺市内の長栄山妙法寺には墓がある。 没年は慶長2年(1597年)、慶長8年(1603年)、寛永19年(1642年)など諸説ある。

逸話

  • 秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせた。
  • 秀吉から褒美を下される際、何を希望するか尋ねられた新左衛門は、今日は米1粒、翌日には倍の2粒、その翌日には更に倍の4粒と、日ごとに倍の量の米を100日間もらう事を希望した。米粒なら大した事はないと思った秀吉は簡単に承諾したが、日ごとに倍ずつ増やして行くと100日後には膨大な量になる事に途中で気づき、他の褒美に変えてもらった。
  • 御前でおならをして秀吉に笏で叩かれて、とっさに「おならして国二ヶ国を得たりけり頭はりまに尻はびっちう(びっちゅう)」という歌を詠んだ。

二世 曽呂利 新左衛門

二世 曽呂利 新左衛門(にせ そろり しんざえもん、天保13年10月15日 - 1923年7月2日)は、大阪生まれの上方噺家。本名: 猪里重次郎(いさと じゅうじろう)。享年81。

大坂新町の友禅染屋に生まれる。幼少時から素人落語に加わり、桂猫丸、桂夢丸、文の家かしくなどを名乗る。しかし、このことにより父から勘当され、やむを得ず幇間となって、京都で千九八、大坂堀江で観八を名乗る。

1865年、初代笑福亭松鶴門に入り、京都笑福亭で高座を務め、二代目笑福亭松竹となる。後、大阪に戻り笑福亭梅香を名乗るが、師匠・松鶴が死去したため、新町九軒末廣亭で松竹亭梅花と改める。1869年10月、座長となり、再び旧名の笑福亭梅香に戻る。1873年3月、初代桂文枝門下に移り、初代桂文之助を名乗る。同門の初代桂文三(二代目桂文枝)、二代目桂文都二代目月亭文都)、初代桂文團治と共に、「四天王」と称えられた。

1886年、絵画の師である久保田米僊らの勧めにより二代目曽呂利新左衛門を襲名。ただし「偽」に洒落て「ニセ」と読ませるため、あえて二世曽呂利新左衛門と名乗った。後に三友派の会長を勤め、1910年、68歳で引退。風流三昧の余生を過ごした。

大ネタよりも、軽い小噺や、座敷芸などで本領を発揮した、どちらかというと才人肌の人であった。上方で膝隠しと見台を使わずに演じた最初の噺家とされる。また、多くの新作・改作をも物にし、達者な筆遣いで活字化している。

数々の奇行でも知られ、1914年6月には「香典保存会」と銘打って生き葬式を挙行。実際の死後に行われた本葬では寺中を桜の造花で飾りつけ、生前のあだ名が「お骨の生焼け」であったことから、自らの頭蓋骨をガラス箱に入れて参列者に見物させたりした。墓所は大阪市天王寺区の隆専寺。法名: 轉譽法輪漁仙居士。

弟子には二代目桂文之助、三代目桂梅香、三代目桂藤兵衛(元川傳吉)、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる、後の川上音二郎)、初代桂枝太郎、二代目桂猫丸桂柳枝らがいる。

また実の子猪里桃太郎は歌舞伎十一代目片岡仁左衛門の門下になって片岡我太郎を名乗った。

SPレコードは『紙手紙』『馬部屋』等の数種類残されていて上方落語の最も古い録音で往事の芸風を偲ぶことができる。

出典

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『桂春団治』(富士正晴著)
  • 『上方落語ノート』(桂米朝著、青蛙房、1978年)「明治の上方新作落語」

外部リンク

  • その他 - 二世曽呂利新左衛門の門碑。