桂文枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ファイル:Musubi-kashiwa.svg
結三柏は、桂文枝一門の定紋である。

桂 文枝(かつら ぶんし)は、上方落語名跡。現在は6代目。桂文治の名跡が東京に移ってからは、事実上、上方桂一門止め名となっている。

なお「文枝」の名跡は、元は初代文枝の師匠であった上方4代目桂文治の前名であるが、現在は代数に数えられていない。

文枝代々の紋は漢字の「文」をあしらった文枝紋を使用する。

初代

初代 桂文枝1819年 - 1874年4月2日)は、本名同じ。明治維新戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。通称(あだ名)は「藤兵衛」。

近年、大阪市天王寺区の全慶院から墓碑が発見され、子孫の過去帳からも新たに出身や背景が確認された。それによると、生家は大阪市中央区心斎橋界隈にあったらしい。文献では鍛冶職人と伝わっているが、子孫には家具職人三文字屋で道具も残されている。また、掛け軸による肖像画も発見されている[1]

上方3代目桂文治門下とする説と、上方4代目門下とする両説があるが、あるいは3代目の死去後、4代目預かりとなったのかもしれない。1840年笑福亭梅花の門人となり笑福亭万光(萬光)を名乗る。後、笑福亭?梅花、笑福亭?梅香を経て、4代目桂文治門下に移り初代文枝を名乗る。最初の読みは、「フミエ」であった。しかし、女と間違えられるため、「ブンシ」と読みを変えた。本来実力から桂文治を襲名してもおかしくないが代々夭折したために嫌って敢えて文枝のままで襲名を行わなかったのだという。

上方落語中興の祖。当時流行していた唄や踊り交じりの派手な噺ではなく、素噺で評判を取った。この芸風は、2代目・3代目の文枝にも引き継がれてゆく。また、前座噺の『三十石』を大ネタに仕立て上げた。この噺を百両で質入し、その間は高座に掛けなかったため、見かねた贔屓客が質受けしたという伝説は有名である。また、あまりにも人気があったため、寄席の席亭が文枝の画像を床の間にかけて敬ったという逸話もある。

藤兵衛というあだ名は当時藤兵衛という贔屓の旦那衆がこの文枝と容貌が瓜二つだった為にそう言われる様になった。

門人には、「四天王」として知られる、初代桂文三(後の2代目桂文枝、桂文左衛門)、初代桂文之助(後の2世曽呂利新左衛門)、初代桂文團治2代目桂文都(後の2代目月亭文都)の他、初代桂文我3代目桂文吾初代桂文昇初代桂談枝2代目笑福亭木鶴初代桂燕枝3代目桂藤兵衛軽口笑福亭松右衛門らがいる。

法名:桂壽院善譽諦心文枝居士。墓所は全慶院。享年56。1880年の7回忌には弟子らによって天王寺圓成院(別名遊行寺)にて記念法要が行われ、同所に上記の天王寺区全慶院のは別の墓も建てられている。その時に妻のサトは初代文三に2代目文枝の襲名を薦めている、サトは同年6月22日に没している。

2代目

2代目 桂文枝1844年 - 1916年5月16日)は、後の桂文左衛門。元は初代立川三木助初代桂文三。本名: 渡辺儀助。享年72。

3代目

3代目 桂文枝1864年 - 1910年12月24日)は、本名: 橋本亀吉。

大阪上本町の城代用達「橋本屋」の子として生まれるが、幼くして父と死別。(一説には初代文枝の隠し子とも言われる)近所に初代文枝が住んでおり、可愛がられたため1869年頃、に6歳(9歳とも)で入門。小文を名乗り、法善寺泉熊席で初高座。師匠の没後、1874年、兄弟子の2代目文枝門下に移る。1880年初代桂小文枝を名乗り、旅興行へ出る。1886年に帰阪。1904年、2代目文枝が桂文左衛門を襲名をきっかけに3代目文枝を襲名。

襲名に関しては初代の遺言で襲名する事になったという。

芸風は地味で上品。持ちネタの豊富さは随一であったといい、『土橋万歳』『大丸屋騒動』『箒屋娘』『お文さん』『菊江仏壇』『千両蜜柑』などが十八番だった。また、山村流の舞踊や、笛・胡弓など、音曲の腕前も一流であった。

背中一面には刺青があり舞踊中にチラッと見せるのが特徴的であった。

3代目文枝の死後、上方落語の本流であった桂派は急激な衰えを見せ、興行形式も大八会浪花落語反対派などの漫才色物中心のものへと変化し、後の上方落語衰退の遠因となった。

背中には一面に刺青があってその意外さに驚かされたという。

法名:我友軒豊誉雀年性瑞居士。墓所は初代と同じ全慶院。享年47。

門下には2代目桂圓枝初代桂歌之助4代目桂文枝初代桂枝三郎8代目桂文治らがいる。

4代目

4代目 桂文枝1891年1月29日 - 1958年3月16日)は、本名: 瀬崎米三郎。テンプレート:没年齢2

大阪坂町の生まれ。生家は寄席だったという。4歳から歌舞伎6代目嵐三五郎門下になり、子役として活躍するが、病弱のため廃業。1905年に15歳の時、3代目文枝門下となり、初代桂阿や免(あやめ)を名乗る(5月に入門したため)。1910年2代目桂枝三郎となるが、1921年、舞踊家として、山村流を止めて7代目坂東三津五郎の弟子となり、初め坂東三津治、1932年、三之丞を名乗る。大正の入り旅回りが多くなり、橋本文司を名乗る。1932年からは満洲新京(あるいは青島ともいう)で舞踊の教習所や、東北省長春で芸子相手に舞踊の師匠していたともいわれる。このころ2代目三遊亭百生も世話になっていたという。戦後は落語家に復帰し、橋本文司を再び名乗っていたが、1946年秋、4代目文枝を襲名。

経歴からも分かるように、舞踊は本格派で、噺を手早く切り上げて踊りを見せるのが常であった。妻が女義太夫豊竹東昇豊竹呂昇門下)であったため、落語と義太夫を合わせた「浄瑠璃落語」なるものを作り上げ、披露していた。舞踊の名人7代目三津五郎にしこまれたこともあって、高下駄をはいて枡の上に片足で立って十数本のを広げる「松尽くし」に見られるような高度な技量の舞踊などをも得意としていた。三津五郎の後見もしていたが、晩年になると、役者時代の事は後輩にはあまり話さず、「わしは市川箱登羅の弟子で、猫登羅やった。」と、とぼけて周囲を笑わせていた。

ずぼらな点もあって、入れ歯の具合が悪くなり言語が不明瞭となっても全く意に介さなかった。5代目文枝は、「入歯にのりつけるのがじゃまくさいんですな。・・・衣装なんかはきっちりしてるけど、かんじんのしゃべることについてはずぼらでしたな。」と証言している。(「上方芸能 93号」1986年11月 刊)

得意ネタには『小倉舟』『愛宕山』『蛸芝居』等をよく演じていた。

戦後は戎橋松竹にも出演。また「宝塚落語会」の指導者として、後進の指導にも当たった。門下には5代目桂文枝、3代目桂枝之助(後の俳優山本稔)らがいる。

法名: 釈文枝。墓所は一心寺納骨堂。

5代目

5代目 桂文枝1930年4月12日 - 2005年3月12日)は、本名: 長谷川多持。テンプレート:没年齢2

1947年、4代目文枝に弟子入り。2代目桂あやめ、3代目桂小文枝を経て、1992年、5代目文枝を襲名。3代目桂米朝6代目笑福亭松鶴3代目桂春団治と共に「四天王」と呼ばれた。弟子には桂三枝(6代桂文枝)、桂きん枝桂文珍など。

法名:多宝院光徳文枝居士。墓所は印山寺。

たちぎれ」「悋気の独楽」「猿後家」などの女性を演じれば天下一品。ほかにも「天神山」の狐が口に筆を加えて障子に一首書き残す手法は現在ほとんどやり手がないが、貴重な映像が『ライオンお笑いネットワーク』で収録放映され現存している。

6代目

6代 桂文枝1943年7月16日 - )は、本名: 河村靜也。

5代目の総領弟子だった桂三枝が69歳の誕生日である2012年7月16日に襲名した[2]

なお上方では、単に「六代目」と言えば専ら6代目笑福亭松鶴を指すため「六代 桂文枝」として襲名。

先代は古典落語中心であったが、6代目は創作落語新作落語)派である。『マンスリーよしもとPLUS』では川柳をほとんど作ったことがないけれども語っている。

脚注

テンプレート:Reflist

出典

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『あんけら荘夜話』(5代目桂文枝談、青蛙房、1996年)
  • 『古今東西噺家紳士録』
  • 文枝代々

関連項目

外部リンク

  • 著名人のお墓:初代桂文枝 株式会社亘徳
  • 桂三枝 文枝の六代目に 上方落語の大名跡 スポーツニッポン 2012年7月16日閲覧