松平正綱

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テンプレート:基礎情報 武士 松平 正綱(まつだいら まさつな)は、江戸時代初期の旗本大名相模国玉縄藩初代藩主。大河内松平宗家初代。世界最長の並木道として知られる日光杉並木の寄進者として知られる。

生涯

大河内秀綱の次男として生まれ、天正15年(1587年)に徳川家康の命で長沢松平家分家の松平正次の養子となって松平姓を称し、文禄元年(1596年)より家康に近仕。側近として重用されて板倉重昌秋元泰朝と並んで駿府城での家康の近習出頭人の地位を占め、慶長14年(1609年)頃から勘定頭の任も兼ねる。2代将軍徳川秀忠の下でも勘定頭として活動し、相模玉縄2万2100石を領した。元和6年(1620年)、東福門院和子の入内に供奉する。寛永4年(1627年)の蒲生忠郷や同9年(1632年)の徳川忠長改易には上使として派遣される。寛永10年(1633年)9月に同僚の伊丹康勝とともに勘当を言い渡されて一旦は失脚したが、翌年5月に赦免され復職。

権勢と失脚

藩翰譜』には、「天下郡國の吏務、貢賦の結解(けちげ)を司り、要劇の職にありて、終に一時の淹滞もなし」と評されている。慶長15年(1610年)に駿府城が火事になった際、納戸から取り出した晒布を結んで石垣に垂れ、城中の者が脱出できる手筈を整えるなど、才知に富んでおり、なおかつ財政にも明るかったことから家康の覚えめでたかった。また、家康の死後は敬遠された駿府衆の中では唯一、秀忠や江戸老中にも重用された。幕府の財政政策はもとより天領の管理も担当する正綱の立場は、後の勘定奉行の前身とはいえ比較にならないほどの権勢を誇り、幕閣の会議を自邸で主宰したりなど格式と実力は老中に匹敵した。しかし、不幸にも3代将軍徳川家光にとっては権力確立の妨げになる存在とされ(養子の信綱は家光の側近だったにもかかわらず)、幕閣から排除されてしまうのである。

正綱と日光東照宮

家康の没後は久能山への埋葬や、駿府城に遺された莫大な遺産の管理を担当。元和3年(1617年)の日光への改葬にも付き従っている。勘定方首座の任を外れてからは、家光の意を受けて日光東照宮の造営に従事した。寛永2年(1625年)から東照宮への参道に杉の植樹を開始。24年をかけて現在の日光杉並木の様相を整えた。慶安元年(1648年)にはそれを記念する石碑の建立を志し、林羅山に碑銘を依頼したものの、完成を見ることなく死去した。


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